第2章 現代の宗教が抱える問題

第2章 現代の宗教が抱える問題

第2章 現代の宗教が抱える問題

今日宗教が抱える問題点は何でしょうか?私達の時代は、精神性(宗教心)の「新時代」とか色々な信仰の道が開かれている等、表面上は生き生きとした時代のように見えます。お寺や教団で代表される宗教組織の代わりに、もっと自分自身の精神性を捜し求める動きが広がってきています。お寺に属しなくても、精神性(宗教心)を持つことで生活や現実をもっと広い目で見るのに役立ちそうです。此れ迄は邪教とか迷信と思われて来た信仰や実践も、そのうちに受け入れられるように成ってきています。色々な考え方や多様性があるのが、現代の特徴です。違いがあるのがいい事だと喜ぶ一方、宗教心が色々違った経路を取ると、どう言う事になるかに就いては判断しかねている状態です。何れにしても、宗教、信仰、精神性は、私達にとって依然として大切な問題です。

例えば、宗教は、知的な問題、社会的な問題、及び精神的な問題を提起します。宗教が知的に問題になるのは、人の信仰と理性との関係です。信仰と言うと単に盲信することでしょうか? 宗教上の信仰を築く際に、批判的な知性が果たす役割があるでしょうか?現代科学の教える所と宗教上の信仰は、どのようにしたら、一つにまとまるのでしょうか? 宗教が社会で問題となるのは、宗教での信仰が世間の現状解決にどの程度関与したらいいかです。現実に色々な宗教上の考えがあるのに、自分達の考え方を社会に主張するのに、どのような形の信仰を考えるべきでしょうか?どう見るべきか?信仰があるからと言って私達の社会観を他人に押し付けてもいいでしょうか? 宗教的の信仰を持てば起こって来る精神面の問題は、自分だけ良ければよいと思う考えをそれとなく起こさせてしまうのか、或いは広い範囲の本当に人の為になる努力をするように奮い立たせるだろうかということです。宗教的信仰は、人々をグループに分けてしまうのでしょうか、それとも皆の違いをお互いに認めて人々が纏まるように働くのでしょうか?

宗教に関して知性の面からの課題は、西洋文化の発達に深く根ざしています。宗教信仰の知的面での基盤及び信仰と理性の一致ということから、ギリシャ哲学とユダヤ教・キリスト教の哲学―神学の伝統が生まれたのですが、これらの事は色々な面で、私達の歴史上起きた色々な影響の為、弱くなって来ました。生活が俗化し、人生の意味を考える際に宗教の持つ役割は、西洋では、急速に衰えて来ました。要するに、宗教は、神のお告げに基づくと言うより、色々な歴史、社会、個人の事情に影響され、形作られて来た人間の作り上げたものとして見られるようになったのです。二十世紀になり、アルバート・アインシュタイン(1879-1955)と所謂「新物理学」の出現で、総て、物事は時間、場所、観察する立場につれて変わるのだと言われて来ました。たった約一世紀、人の一生位の間に、これまでの信仰を支えてきたものが弱まったり、押し流されてしまいました。

宗教の社会的な問題は、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教など色々な宗教で起こった原理主義(伝統に固執)の勃興に、その姿が見られます。これらの動きは、科学知識の発達で起こった非宗教・世俗的考え方が迫って来るのに対向して出てきました。宗教熱は国家主義と自国や民族グループの神聖な伝統に戻ろうと言う呼びかけに結びついている事が多く、宗教は人々を別々に分割して、同じ仲間同士の団結を結集する手段になってしまいました。その良い例は、最近起こったセルビアでのイスラム教徒のボスニア人とキリスト教徒のセルビア人が戦った「民族浄化」運動です。殆ど終わりのないイスラエルとアラビア諸国間の戦いには、その底に宗教熱が流れています。イランとタリバンの宗教過激主義は、宗教的、社会的に相手を認めない頑な理由で戦って来ました。日本で起こったオーム真理教集団は、宗教が大きな破壊力になり得ることを示しました。いわゆる米国の文化闘争は、宗教がその根本にあり、社会に於いて宗教が社会を分裂する強力な力になり得ることを物語っています。

最早、中心となる、全体を統一する考え方がなくなったことです。世界の民族の間で分裂がおこり、そのため、皆が共通の運命を共にすると言う感覚が失われる危機に瀕しています。それでも、色々な宗教の伝統の歴史をもっと現実的に理解し、生活を宗教的に考えてみようと尋ねたり、興味を示す動きが復活して来ています。この為、仏教にとって、種々な形で今までの西洋の宗教的見方よりもっと現代人にぴったりで、現在の時代に求道する人達の精神的、知的なニーズに答える機会が出てきました。

この新時代は、仏教にとっても、また宗教一般にとってもチャレンジであると同時に、よい機会でもあります。マイナスの面では、現代に対する批評家は、宗教的信仰が合理的な見方の源や真実の探求にはならず、単に個人の感傷に浸っている点を強調して来ました。多くの人にとって、宗教は、自分や生活について気分をよくさせる一つの手段です。更に、宗教は、以前、主に共同社会と家族の問題であったのですが、いまでは、かなり個人一人のものとなってしまったのです。個人主義のいい所は、個人が思うままに多くの代わりの宗教を探求できることかも知れません。しかし、本当に考えて調べないと、社会には、自分達の隠れた目標を達成しようとする宗教指導者や運動があるので、彼らに利用されてしまうことがあります。

この60億の人口に達する、人間無視の、顔の見えない世の中で、個人に物や心理的な満足感を与え、自分がたいした者だと思わせるような場合に、宗教や擬似宗教運動が栄えるのです。多くの人々にとって、宗教の持つ主な役目は、ただ、現代生活での複雑なことや苦しみから逃れる幸せと安息の地を与えてくれるのに過ぎません。

日本や米国のような先進国でも、宗教指導者に考えなしに追随した場合どうなるか、お分かりでしょう。このような盲信によって、この非宗教・現世主義に立ち向かう破壊的な反対勢力が呼び起こされることがあります。その結果、この宗教無視の潮に巻き返しを図ろうとする努力が、暴力と社会の崩壊につながります。現代科学の理屈では、解決不能であるから当然であると、色々な社会で原理主義や独裁的宗教が起こっています。

このような色々な傾向を背景にして、現代を末法、或いは仏法の最後の時代と呼ぶことができます。従来の教義(真宗の教えで強調)では、末法は、仏法が段々衰え、消滅し、仏教精神の崩壊をしめす時代であると考えています。「末法」と言う言葉は、社会と個人の生活に混乱と大変動が起こる時代を示すのに使われています。これらの状態は、数多くの大乗仏教の経典に、釈尊入滅後どうなるかの予言と言う形で述べられています。仏法教義では,時代を正法、像法、末法つまり、仏法の最後の、或いは滅亡の時代という三つの時期に分類しています。

「末法」と言う考えは矛盾している所があります。それは、仏法の衰退を強調しながら、一方では、同時に仏教のより深い真実が最後の時代に表れると明言されているからです。この時代では、仏の教えは、総ての社会、宗教の区別を越えた形で表れ、その時代の人々の普遍的な精神面でのニーズと能力に答えるものになります。法然上人、親鸞聖人(1173~1262)と日蓮上人(1222~1282)は、日本での主要な仏教運動の宗祖として、夫々浄土教,或いは「法華経」の教えが、最後(末法)の時代に生きる人々にとって最終の真実となると、仏陀が意図されたと強調しました。

現代宗教の象徴として,「末法」は、歴史的に時代がどう変っていくか推測するものではなく、私達の精神状態を表しており、外の世界にそれが映しだされています。これが表している主要な意味は、宗教に携わった人々が精神性の価値と目標を高く維持して来なかった為、宗教が腐敗してしまったと言う事です。「末法」の教義は、私達が伝統と言うものを余りに後生大事に崇めてはならないと教えているのです。つまり、宗教は人間のすることなので、他の総ての人間活動がそうであるように、同じような「俺が、俺が」と言う問題を抱えています。

宗教が組織教団化し、社会に溶け込んで行くにつれて、社会の悪と組んで宗教の真実の持つ深遠な面をあいまいなものにしてしまいます。このような事情のために、宗教組織が社会で権力と威光を求めて競争するようになると、個人々々は、教団組織が主張する真実を越えて、自分達の生活のための真実の信仰を求めなければなりません。これを成し遂げるには,私達は宗祖が開かれた信仰の道に遡らなければならないのです。

宗教上の伝統は、私達の家庭に貯水池から水をもたらす配水管のようなものです。配管が錆びると、水は汚れるので、パイプに溜まったカスを除いて更新しなければなりません。同様に、宗祖を奮い立たせ、後に続く世代にとって精神の糧となった大切な真実を再び奉ずることで、教団を更新できるかもしれません。

私達の時代に末法が現存していることは、社会と個人の生活の中で、色々な特徴をもって現れています。例えば、不条理(ばかげたこと)、あいまい性、人間疎外感、心配事、孤独等です。私達の末法時代が不条理なのは、色々な型の偏見と言う不道徳行為のなかに出ています。 人種、性別、性的志向、或いは宗教の為に、排斥された集団の人々の権利が踏みにじられています。私達が社会、科学、技術の面や、また宗教の面から理解しようとしても、歴史的な、不合理な差別と、しばしばそれに伴う暴力を私達の社会生活から除去できないでいます。不条理なことは、平和を訴えながら戦争を仕掛ける手段・方法を育成している国粋主義の政治家たちにも表れていています。社会全体を通じて広い範囲で、ごまかしがまかり通っていますが、特に政治、政府、ビジネスの面に著しく表れています。私達は、誇大宣伝の世界に生きており、もったいぶった標語が本来の意図を隠しています。此れまで迫害者であった人達が今度は、逆差別問題で自分達が被害者だと主張し、正義が逆にとられ、言葉の意味が曲げて使われていることが多いのです。此れまでの制度による差別を精算するために、歴史的に正当化して来た福祉受給と差別解消策を廃止しようとする努力があり、その為に、今まで本当に迫害を受け、問題を個人では解決する程多くの場合十分な財政手段を持たない人々に正義を図ろうとすることが、現代社会では余計難しくなってきています。これは、正義は平等だとするアメリカの理想とは合いません。

妊娠中絶、生物学・医学上の開発、生態学、及び益々早くなる技術の変化の課題に関する価値観と倫理の問題は、近代生活の矛盾を浮き彫りにし、この時代では、自然保護と開発の争点が衝突し、科学の発見が生命に対する危険をはらんでいます。科学の発見は、偉大な利点をもたらす可能性がある一方、大きな害悪にもなる可能性があります。

私達の時代の多くの特徴の中で、最も明らかでよく判っているのは、人間同士が疎遠なっていることでしょう。これは、私達の「末法」の世界を強く表しているしるしですが、それは、国家間、社会的・経済的に異なる階級間、世代、男性/女性、人種、民族間、及び技術先進・後進国間の紛争にはっきり出ています。

しかし、最も奥が深く、最も著しい疎遠関係は、各人が真実の自分自身から疎遠になっている事です。これは切ない空白感・疎外感として表れ、それは、自分が今生きていることの不思議と深遠な意味、並びに自分が生きとし生けるものすべてと連帯していることを見抜き、認識できないことから来ています。私達は、近代的個人主義のために、間違った意識を持ち合わせていますが、それは、物質文化と経済論に基づき、競争することが人生で大事だと勧められた結果、モノをもっていることで自己主張の基とする間違った意識です。

近代社会は、地球全体の規模で、複雑な社会、政治、経済、および技術力で形づけられていますが、その力に直面し、世界中で多くの人が自分たちの無力感を味合っています。人々は、心の中の圧迫感を絶望、挫折、怒りや目的を失った感じで受け、それに答えて反発し、時には抵抗運動に走ってしまいます。併し、反発は、また受身の抵抗となって表れ、「自分のやりたいことをやる」事で、自分の個人的な満足に没頭して、その代わりもっと大きな世界の情勢には無頓着になってしまいます。

私達の時代では、物質的成功や快楽に惑わされて自分の内心を深く探求出来ないのです。

この様な誘惑の為、私達は間違った意味にとりつかれ、富とか物の所有による外見に囚われた内心の価値観に達し、私たちの生活の現実に目を背けてしまいます。絶望とか失望に逢ったり、不信感を持つと、人はしばしば麻薬や酒に逃避しようと図ります。

かなり多くの人々にとって現代は、間違いなく個人と社会にとって、不安の時代と言えるでしょう。何十年も私達は自分達の住む町に起こる犯罪や暴力を始めとして、社会の分裂、戦争とテロの脅威に絶えず悩まされて生きて来ました。永年の人種差別と技術革新のせいで、下層階級が生まれ、その為暴力と、経済的な落ちこぼれと貧困による、潜在する社会的結末が原因で社会平和が脅かされています。このような状態では、私達は、自分達が経済的に恵まれているのは申し訳ないなと思うか、社会で自分たちの身の安全について不安になるかどちらかになります。

友人達に囲まれていても孤独感を持つのは、多くの現代人が共通して経験することです。人生にポッカリ穴が空いている感じです。心では、願っていても人間関係で深入りしたり、約束事をするのを避けることが多いのです。私達が誇りに思う個人主義の為に、私達は、我欲の城に閉じ込められています。無関心が広く蔓延っています。自分達の寂しさを紛らわすために少人数の親しいグループに閉じこもる人もいます。しかし、私達の人間関係が我々の生存の根源をゆさぶることのないような、軽薄なものであれば、そのような関係は、自分自身の現実とその意味を納得しようとする本道からそれた回り道か、わき道に過ぎないでしょう。

私達は皆、自分達の一生の間の様々な時期に起こるこの様な不条理、曖昧さ、疎外感、不安、孤独感に陥る時の兆候について薄々判っています。私達自身の経験から自分達が生存してゆく希望と見込みがぐらつくことがあります。現代が曖昧な時代であるのは、宗教それ自身の面でもはっきり現れています。宗教が盛んであるように見え、普遍的な兄弟愛と平和を宣言していても、憎しみと暴力の潮を止めることが出来ません。宗教は、現代の人々の問題の解決にならないで、反ってその原因の一部ではないか?と言う疑問が出ます。

宗教が人間の生活にどんな意味があるかと問う時に始めて、宗教の精神面の問題が出て来ます。宗教は単に自己満足のためだけなのか? 或いは私達の生命と責任がもつ内容には、もっと広い意味があることを教えてくれるのか?しかし、知的、社会環境条件やそれらが変わっているとしても、かの著名なキリスト教神学者ハーベイ・コックスが言っています。

 

「. . . .儀式と宗教は廃れていくことは無いだろうが、それらが人間を解放するのに使われるの か、束縛する為に使われるかが、本当の問題である。」

この「末法」時代にある多くの特徴は、要するにフランシス・フクヤマ博士の言われた通りである。

      「現代社会は永年にわたり、民主社会に向って成長して来たが、近代思想は行き詰まりに突き当たって   いるので、人間と人間独特の尊厳性がどのように成り立っているかについて同意できないでいる。従っ        て、人間の権利が何であるかも決められないでいる。」

 私は、宗教的信仰によって新しい自己を見出すことが出来、空しい生存から超越し得ると思っています。何らかの形で自分が誰であるかということと、精神的開放を求める声が広がっています。これは、このように道を求める人々にとって、従来の宗教関係の出版物やニユー・エイジ(新時代)の精神性を始めとして、多くの自己救済用テキストや教化課程といった広範囲の中から選べるようになっていることからも判ります。精神分析医のロバート・アサジオリ氏は、これに関して次のように述べてています。

「自我」が今、再登場して来た主な理由の一つは、人々が自分が誰であるかを盛んに捜し求めているから      である。以前、人は、銘々言ってみれば、何の疑いもなく自分を当たり前の自分として受け止めてきた。        ありのままの自分個人としてだが、もっと多くの場合には、自分の所属する集団、例えば、家族、

種族、氏族、階級、国家との一員としてか、或いは、宗教心があれば絶対者か神と自分を結びつけて来た。しかし、全く危機に瀕しているといって良い現代では、このように帰属すべきものが廃れ、個人は、自分しか頼れない。この状況で困惑し、自分が誰であるか判らなくなったので、これが「実存する苦悶」が広まっている主な原因である。」

この実存する苦悶こそ、精神面での現実と私達の生活での根源を新規に理解するための突破口になる条件と言ってもよいでしょう。「真実を知れば、その真実であなたは、解放されるでしょう」と言う古い言葉が今日の宗教で求める基本的課題であることに変わりありません。私達を解放してくれるのは、心の平和や幸さではなくて、真実です。

2500年以上も前にその端を発した仏教は、真実を求めることでした。ゴータマ(釈尊)の目標は、人間性を盲目にしてしまう迷いの覆いを突き破り、あるがままの姿に達することでした。仏教は、悟りの宗教です。仏教は、自分の好みに黙従するとか、単なる習慣に順応することではないのです。2000年以上の伝統に於いて真実の基を求めて来たので、仏教は、その伝統を絶えず更新し、生気を与えてきました。

私達の現代で新しい自我を求める人にとって、仏教は教えるものが多々あります。大乗仏教思想での考えと言葉の批判内容はポスト・モダン時代と多くの共通点を持っています。教典の権威では、言葉とその意味する目的が直接結びついていると仮定しますが、両者共に、そのような言葉、表現、教典の持つ圧制から人間精神を解放してくれます。

しかし、近代的な取り組み方では懐疑主義に陥るのに反し、仏教では、真実の探求を他人に対する深い責任感と結びつけるところが違います。仏教では、生きとし生けるものすべてが持ちつ持たれていることを強調し、限りない慈悲の理想に重点を置いています。

このように現実を理解する結果、どんな真実でも、人と人との対話のなかで真実が判ってきます。真実の意味はお互いの相対関係の中にあるのです。単なる自己―他者と言う二つの対立関係はありません。むしろ、自己と他者・世界との間に、「他者の中の自己」と「自己の中の他者」と言う相対関係があり、これによって、この相互依存と相対関係に意味が出てきます。

私達がお互いに教えの中身を探求して始めて意味が出てくるのです。ここに概略を述べましたように、近代の生活条件は、宗教界に挑戦・要望するところがあります。それは、自己の宗教界の生活だけでなく、住んでいる社会にも今日的意義のあるような見方を、自分達の持っ精神性組織の中で、深く追求してもらいたいということです。

親鸞聖人は、比叡山での従来の出家制度に別れを告げられましたが、まさに此処で言う挑戦を示唆しています。聖人は真実を求めて、精神性の再建・再生の道を自分と当時の信者の為に開かれました。また、当時の人々に自分達が生活と現実をどう理解しているか再検討するように迫られました。親鸞聖人は、没後に明治政府(1861-1912)から見真(「真実を見る」)と言う諡号(おくりな)を下賜されましたが、聖人自身なら必ずや拒絶されたことでしょう。しかも、約800年も前に御自身の真実の探求の結果得られた、聖人が生活と信心を理解するのになされた貢献は、私達の21世紀の「末法」の世界での人生の意味と精神面での現実を照らして、今なお新鮮で明らかです。聖人の浄土教理の再解釈に発するこの教えは、この「末法」時代で多くの問題および文化と宗教の課題に直面して、精神的探求をする今日の私達を助けてくれるのです。