第3章 本願の土壌に根付いたもの

第3章 本願の土壌に根付いたもの

 3章 本願の土壌に根付いたもの  

親鸞聖人は、平家および源氏の武士階級が日本全国の支配をかけて動乱と闘争に明け暮れた、有名な源平戦の時代に、藤原氏の支流、日野家に生まれました。言い伝えでは、かなり幼い時に両親を失ったとされています。父の有範は傍系の皇太后に仕える、官位の低い朝廷の役人でした。親鸞の母親については知られておりませんが、源義親の娘、吉光女(きっこうにょ)であるとも伝えられています。

かつて、日本のしきたりでは、人の名前は生涯を通じて色々な段階を過ぎる度毎に変わりました。

親鸞聖人の幼名は松若丸でした。親鸞について書かれた最も初期の伝記では、聖人を神格化するために、聖人を藤原家の氏神である天児屋根尊の子孫として記載されています。日本の神話では、この神は、日本の国を設立するために地上に降りた初代の天皇家の祖先になった、天照大神(女性の太陽神)の孫に随行したとされています。

貴族であった親鸞聖人は朝廷で見込みのある将来性を持っていたかもしれませんが、聖人の宗教心の故に、九歳の時に出家されました。民間伝承によれば、親鸞聖人は、父母を若くして亡くしたことで、生命のはかなさに打たれたと言われています。唯、現代の研究では、聖人だけでなく、父親も兄弟達も比叡山の天台宗に入門したことが知られており、聖人が出家した理由については、謎に包まれています。ただ、親鸞聖人がほんの幼少だった頃に父の有範が尚生存していたことは、明らかです。隠居後、有範入道と呼ばれ、宗教的生活の道に入りました。親鸞聖人と家族が俗世間を捨てたのは、政治的、経済的理由から、或いは、家族や個人的事情によるものでしょうか、確かなことは知ることができません。

親鸞聖人ご自身は、剃髪し得度を受けた時に、名前、範宴を戴いた比叡山の高位の僧(天台座主、貫主)慈円(1155-1225)の弟子として見られていますが、その後、天台仏教を熱心に学び始めました。聖人は源信(浄土教を広めた)の教えを習得し、「天台宗の思想で、師の鋭い洞察を受けなかった事項は無かった等」と言われています。これらの伝承は厳密に評価するのが難しいのですが、親鸞聖人の著述から、聖人が浄土教の伝統についての広い知識、および人間性と宗教的信仰に突き詰めた鋭い洞察力を持っておられた事が分かります。聖人の解釈の鋭さおよび解釈の方法から、仏教の教えと御自分の人間関係に対して深く内省された事が拝察できます。

ある伝承によれば、親鸞聖人が比叡山で高位につかれ、お寺の貫(門)主にまでなられたとさえ述べられていますが、聖人は比叡山で20年間精進された後、その地位と決別して1201年に山を下り、仏教の真実の求道者として法然上人の門に入られたとされています。伝承とは反対に、聖人の妻恵信尼の手紙には、聖人が寺の一僧侶で常行堂の堂僧としてお勤めになられたこと以外、何もそのような高い地位であったことは、書かれてありません。当時、聖人がご自分の未来の救いについて懸念されていたとも書かれています。聖人は、天台宗の教義と仏教の理想を達成する望みを失ってしまったのです。初期の真宗聖典である嘆徳文には、「(止水に喩えた)瞑想に集中しようとしても聖人の意識の波は揺れ動き、心の月(悟りの象徴)を見ようとしても煩悩の雲に邪魔された。」と記されています。[原文:「定水を凝らすといえども識波しきりに動き心月を観ずといえども妄雲なお覆う」(心を静めようとしても煩悩の波が騒ぎ、法界を観念しようとしても、迷いの雲にかきみだされる。)]

御自分の運命に取り組まれ、聖人は京都の六角堂に百日間こもられました。九五日目に夢告の中で、法然上人を尋ねよとの示現を受けられた。恵信尼の書簡では、この示現は、そのお堂を建立されたと伝えられ、七世紀の日本で仏教を支持された事で有名な聖徳太子によるとされています。当時、法然上人は、既に浄土教の奥義とも言うべき「選択本願念仏集(選択集)(せんちゃくしゅう)」を著されていました。この書により、上人は浄土教がれっきとした独立の宗派であると宣言されましたが、それは、専ら阿弥陀仏の名号を称える(即ち、念仏で南無阿弥陀仏を称える)お勤めに基づき、さらに、阿弥陀仏の第十八願に遡るものです。法然上人は、仏法の最後の時代、つまり末法の時代では、悟りに達する、即ちお浄土で往生するには、僧侶でも一般の人でも念仏だけが唯一の道であると教えられました。

更に100日間、親鸞聖人は法然上人の許に教えを乞い、受けた教えに深く感銘され、ご自分の救いについてもたれていた懸念から解放されました。やがて、聖人は法然上人の書を筆写し、肖像を描くことを許されました。

法然上人が精神性の点で苦悩する人々を受け入れ、すべての人々を、人として短所や欠点があっても、慈悲の念を示された姿は、親鸞聖人にとって、ありのままの私たちを受け入れて下さる阿弥陀仏の限りない無条件のお慈悲を形に示されたものとなりました。法然上人の示されたお手本が親鸞聖人の生涯にわたって励ましとなり、聖人が会われた人なら誰とでもこの教えを分かち合ったのです。

歎異抄の中で、親鸞聖人は、阿弥陀仏の教えは、多くの浄土教伝統の偉大な師を通じて法然へ伝わり、次いで親鸞に届いたと宣言しています。たとえ、聖人は法然上人によって偽られていたかもしれないと言う非難も若干ありましたが、 聖人は法然に従うことに何等後悔せず、それは、聖人にとって究極の悟りと生死の輪廻の業から解脱出来ることを約束し得るような道は、他に無かったからだったと述べられています。念仏に関して批評を受けると、聖人の返答は次の通りでした。

「法然上人のおいでになる所は、他の人がなんと言おうと、例え、地獄へ落ちるだろうと言われても、お供をする。遠い過去から、いつも迷いの世界をさまよって来たこの身なのだから、そうなったとしても、もともとのことであったろうとさえ思っている私なのであるから」と。([恵信尼文書 第三通, 原文では、「上人のわたらせ給はんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々(しょうじょう)にも迷ひければこそありけめとまで思ひまいらする身なればと、やうやうに人の申し候ひしときも仰せ候ひしなり。」教行信証のなかで、聖人は、次の様に述べられています。「もっぱら仏陀の慈悲の深さに気を取られているので、私は他の人からの愚弄を心に留めません。」

これは重要な声明で、聖人の献身と、他の宗派とはっきり線を引き、迫害を受けることさえ辞さないとする程の意欲とを明確に表しています。世間に同調する主義と世間に受け入れて貰いたい気風の私達の時代に対して、親鸞聖人は、精神的な勇気および強さ、すなわち単に皆の後について行こうとする誘惑に打ち勝つべしというお手本を示されています。

自身が一体救われるかと深く失望されたことと、法然上人に会われたことで解放感を味われたことで、聖人の宗教的感受性が強くなられました。自身で深く阿弥陀様の本願に目覚められ、その結果、ご自身が誰かと言う観念が強められ、思想に生気を与えられたのです。聖人は、『弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ』と述懐されています。(歎異抄、後序)(現代語訳、『阿弥陀さまが五劫というたいへん長い間一生懸命の思案をして考え出された本願をよくよく考えてみれば、ただ親鸞一人のためであった、思えば、私はあれこれの多くの業を持っている罪深い身でありますが、その罪深い私をたすけようとお思いになった阿弥陀さまの本願の素晴らしさ、もったいなさよ。』 梅原猛、校注・現代語訳”歎異抄”162頁講談社文庫、1972年4月15日第1刷発行。)聖人が浄土教を根本から解釈し直されたのは、御自分の精神的解放と宗教の実体を強く感じられたからであるかも知れません。

その後、聖人は、唯法然上人の弟子であると主張されました。後に法然上人の正当な承継者であると名乗る浄土教宗派から認められませんでしたが、歎異抄第二章で、聖人のみ教えは、釈迦牟尼、善導、法然を通じて表されてきた本願に基づくものであることを示されています。聖人は「法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。」と結ばれています。親鸞聖人は、ご自分が法然上人の本願に関する御教えを本当に理解していると、しっかりと確信しておりました。この確信があったからこそ、弟子達が聖人の信仰に就いて問い質したときに毅然とした態度がとれたとのです。

聖人は、新しい名、綽空を戴き、喜ばれましたが、後に再び法然上人により改名され、善信となられた。宗教指導者は、弟子達の精神性の位づけを示すのにそのような名前を与えたのです。聖人は、流罪に処せられ、師法然から離別後に、親鸞と名乗られましたが、これは、法然上人の御教に対するご自分の解釈が何に由来しているかを示す為でした。これにより、親鸞聖人は、御教えについて師法然よりさらに深く探求され、天親菩薩と曇鸞大師をご自分の宗教上の師と仰がれたことを示し、二人の師の名前から一字ずつ取られ、親鸞とされたことが分かります。

法然上人に帰依されて以来六年目に、聖人は、辺地越後に流されました。比叡山及び奈良の興福寺の教団当局は、法然上人が奉ずる仏教の教えが国を乱すもので、邪宗であり腐敗したと決め付け、亦、多くの法然上人の弟子達がふしだらな行動をしたとして絶えず朝廷に訴えていました。法然上人の弟子達のなかには、伝統的な神々を軽んじ、神道の氏集団宗教に基づいて、仏教も参加するようになった人々の社会連帯感を覆した者もありました。親鸞聖人がその著書で神道に敬意を払いながらも否認し、仏教の迷信的な信念や慣習も否認されているのは、留意すべきです。

法然上人及び親鸞聖人のような高弟達の迫害のきっかけになった事件は、天皇が参詣(熊野詣)で留守の間に天皇の側室(女御)二人が法然教団の二人の僧との会合を持ったことであった。この二人の僧は打ち首になり、親鸞を含めて法然の高弟等は都から配流に処せられました。法然上人は四国の土佐に、親鸞聖人は越後の国府 (現在の新潟市地域) に流されました。僧侶等は還俗させられ、聖人は藤井善信という俗名を受けましたが、その名前を認めず、禿(とく)と言う姓を名乗り、(「はげ」を意味し、僧侶と非僧侶の中間的な髪で無戒の僧に対する蔑称)(聖人は、その上に愚をつけ、「愚禿」と称され)僧侶でも俗人でもない、非僧非俗であると宣言されました。

流罪先の過酷な環境で、流人はそこで死亡するものとされてきました。でも、政冶の中心からは離れていたので、そこの住民達から流人等は援助を受けることが多かったのです。いずれにしても、聖人は、恵信尼と結婚し、六人の子供をもうけました。恵信尼は、娘の覚信尼に宛てた書状を通じて最もよく知られています。これらの手紙で恵信尼は歴史上の出来事について語っており、聖人が比叡山に居られたこと、聖人の宗教的悩み、それから結局法然上人の弟子になられたことの裏付けになっています。恵信尼自身は献身的な伴侶であり、親鸞聖人を慈悲の菩薩である観世音菩薩の化身と思われていたようです。また、かなりの資産と教養を備えられた婦人で、学問もあり、使用人がいた土地を所有しておりました。

親鸞聖人の結婚に関しては、十七世紀ごろから聖人の伝記の中に真宗派内に広まっていた伝えの所為で色々な説があります。法然上人を信奉する関白九条兼実(かねざね)は、上人にお弟子を結婚させて、仏教徒の禁欲の戒律を破ることで、阿弥陀様の無条件な慈悲心を実際に示して下さいと懇願したと言われています。法然上人に選ばれた親鸞聖人は、師の命に従い兼実の娘、玉日姫を娶られたと伝えられています。姫は息子、範意をもうけられましたが、流罪になった親鸞聖人に随行しなかったとされています。さらに聖人の書簡に信者等に「いや女」の息子である、即生房を援助してくれるようにと依頼されています。この中で強く要請されていますので、この方を聖人のもう一人の息子かもしれないと考える学者もいます。

これらの伝承や学説の基になったものは、六角堂の中で聖人が瞑想された時に得られたと言われている親鸞聖人のビジョンです。最も初期の伝記でよれば、この夢のお告げを得たのは1203年で、救世観音が現われ、戒律を犯して、仏法を伝道する聖人の伴侶として女性の姿を取ると親鸞聖人に約束したとされています。特定の年代が引用されていますが、元の文書(親鸞聖人が書かれたこの夢のお告げについての記述の写し)は、日付がなく、聖人のご結婚について人々が推測するきっかけになっています。

親鸞聖人の結婚は、この夢告に関する伝記の見地あるいは恵信尼との結婚に関する話を採るにしても、聖人の行動理念に基づいたものでした。当時、妻帯したり、同棲したりする僧侶がいましたが、彼らの行動は規律を破るものでした。親鸞聖人は、阿弥陀仏陀の本願に対する完璧な信頼を示す事として結婚の教義上の根拠を与え、末法の最後の時代に戒律の理想が得がたく、したがって、不適当であったと言う事実を教えておられます。

越後に流されていた間、仏法を広げようとする聖人の努力については、記録がほとんどありません。一人だけ聖人の教えに帰依した人が記録に残っています。聖人の流罪がとかれた時、家族と共に、関東に向かわれ、鹿島(今の茨城県)地方の稲田の町に定住されました。そこで、聖人は、僧侶でも俗人でもないと言う生活様式を採られ、農民と一緒の普通の生活を送る傍ら、み教えを広めつつ、約20年を過ごされました。聖人は僧侶の地位が剥奪されていましたので、僧侶の特権を持っていませんでした。しかし、使命を持った人であったので、聖人は単に普通の俗人ではありませんでした。

以前関東に行かれた際に、聖人は、仏法の真実を切望する大衆に出会われました。聖人にとって、流罪が、政府の厳重な監視に影響されない地方でみ教えを共に戴くよい機会であると理解されていました。疫病や飢饉、干ばつなどの脅威にさらされている地方で生き伸びている人々が、命のはかなさをいやと言う程体験していたのです。従って、人々は、阿弥陀仏の本願の慈悲と希望の教えを率直に受け入れました。聖人は、あらゆる階級の人々、猟師、農民、商人や武士さえもひきつけました。

信心に基づく新しい集団(僧伽、さんが)の基礎を築き上げた聖人は、60歳の時、理由は不明ですが、京都に戻り、信者との文通や訪問を受けたりして静かに余生を送られた。手紙をやりとりすることで、聖人は、み教えについての多くの疑問や発展途上のさんがで起こる論争に対処されました。あらゆる困難の中で最も大きなな問題は、信者間の論争の解決に聖人の名代として親鸞聖人が派遣された長男の善鸞を勘当することでした。善鸞は、父親から特別な教えを受けと称し、父の息子として権威を主張しようとしたのです。聖人は、其れまでに聞かれた言い分および非難を整理された結果、信者の信頼および尊敬を維持するために、息子と縁を切らなければならないという結論に達されたのです。

一見引退とも見られた京都居住の間に、聖人は、ご自分の思想の基礎と内容を表す多数の著述をされました。聖人の代表的著作は、顕けん浄土じょうど真実しんじつ教行證きょうぎょうしょう文類もんるい、略して教行信証です(以下、本典)。この書は、インド、中国、朝鮮および日本で信仰の伝統を育成してきた多彩な師の教えを引用され、親鸞聖人のみ教えの基本となる教義を概説したものです。聖人は、より広い範囲から種々の教典を利用されましたが、ご自分の思想形成の根源として、これらの師のうちから七高僧を選ばれました。即ち、印度の竜樹りゅうじゅ大士(西暦150-250)と天親てんじん菩薩ぼさつ(4,5世紀)、中国の曇鸞どんらん大師(476-542)と道綽どうしゃく禅師(562-645)および善導ぜんどう大師(613-681)、並びに日本の源信和尚げんしんかしょう(942-1017)と法然ほうねん上人(1133-

1212)です。

この主要な著作は、実際には完成することはなく、絶えず手を入れておられた状態でありましたが、このほか親鸞聖人は、注釈の書物および師のみ教えを歌える形式にした、詩である和讃(和語、日本語による歌)を表されました。聖人の最も学術的著作である本典は、漢文で書かれていますが、他の著作および手紙は、教育のない者でも解るように日常使われている言葉で書かれました。これらの書は寄り合いなどでも読めましたが、教行信証は、指導者らが学べるものであったと言えるでしょう。これを使いやすくする為に、現代語訳もあります。

親鸞聖人は、新しい宗派や宗教を始めたりすることを望んだり、意図されなかったかもしれませんが、師のみ教えを正式に文書に残され、これらの著書は、成長の途中にあった宗教的伝統の礎になりました。聖人が(教団のような)組織を作る意図が無かったことは、ご自分の後継者を指定せず、どんなお勤めを実行すべきかに就いて詳しく示されなかったという事実から明らかです。唯、信心を持つ人は、阿弥陀様に抱かれ、必ず救われることに感謝する以外の動機を持たないで、念仏を称えなさいと言われただけです。

親鸞聖人は、九十歳のお年で、1262年の11月28日、京都において、舎弟尋有の宅で安らかに遷化(逝去)されました。息女覚信尼がお傍で看取られ、息男の益方入道と数人の信者達の見舞いを受けました。

親鸞聖人がどのような方であられたかについては、数多くの言い伝えが残っています。しかし、聖人が仏教の深い理解と悟りへの路を求められた最初の時期から、どのように歩まれたか、その手がかりをつかむのには、私達は、聖人がご自身について語られている文章から推察するのが一番良いと思います。

親鸞聖人は、当時の修行僧等とは違って、ご自身の精神性の不安の起こる根源に遡られ、そこから人間性と宗教に対して師自身が現実的に得られた理解に基づいて、仏のみ教えを解釈されました。聖人は、仏教が目指すものは、私達が我欲に振り回される衝動や執着心を克服して、無我に達することだと悟られました。しかし、これらの衝動や執着心は、単に宗教の実践と自己啓発による努力だけでは、どんなに真心を込め、心を捧げた、苦行であっても克服出来ませんでした。聖人のなされた深い洞察から、宗教自身には、実際には、私達が他の人達から自分が優れているとか区別の意識を感じて、反って自分達のわがままな自我を唆し、育成してしまう危険性があることを見抜かれました。自己反省を通じて、どれほど自己が敬虔であっても、所詮は煩悩に悩まされるご自分であるので、唯一の悟りに到達する希望は、阿弥陀様の本願にあると悟られたのです。

親鸞聖人を理解する鍵は、善導大師が始めて述べられた二種類ある深い信心の教えです。宗教的意識には、二つの次元があると見るのがこの教えです。一方では、私たちは、深い精神的なレベルでの不浄のために自分の努力で悟りを得ることは不可能であると観念します。他方、私たちの不浄と不完全さをより深く意識すればする程、私たちは、阿弥陀仏-その光は私たちの暗闇にいる心を照らします-のお慈悲に素直になれるのです。善導大師は宗教的意識のこの二つの相反する点について明言されましたが、親鸞聖人は、ご自分の体でこれらの教えを捉えられました。余りにも聖人の体験が強力でしたので、師は、仏教での宗教生活について新しい理解に到達され、今まで観念的であったみ教えに具体的な中身を与えられたのです。

聖人には、比叡山での修行に行き詰まりを感じられた体験があり、またそこでご自分に課された義務を果そうと二十年間真摯な苦闘をされましたが、その御苦闘のためにみ教えの解釈に、深みと創意が加わりました。聖人の生活は、ご自身の悪(煩悩)に対する深い自己反省と仏の条件をつけない、一人として見捨てる事のない慈悲に抱かれることに気付くことの両方をあわせたものでした。親鸞聖人は、決してご自分を皆のお手本にしなさいと胸を張って言われるような方ではありませんでしたが、私達が精神性の面で成長し理解する際の案内役になって下さいます。

聖人の素晴らしい点は、ご自分のみ教えがどこまでも自身の精神的な体験をそのまま映し出されていることです。単に定説を慣例に従って言い換えだけのものではありませんでした。親鸞聖人は師のお考えを確立するに当たって広範囲の資料を参考にされましたが、このような各種の文献を私達が読んだだけでは、聖人の到達された結論に行きつくことはできません。ご自身の得られた体験があるので、これらの資料が更に意味深いものになったのです。

親鸞聖人の持たれた二つの相反する形の体験に就いて、ご自身のお言葉を通じて幾つかの例を挙げます。 聖人は、ご自身が不浄な心を持つ者であると、あからさまに告白されています。

浄土真宗に帰すれども

真実の心はありがたし

虚仮不実のわが身にて

    清浄の心もさらになし    (正像末浄土和讃(九四)、愚禿悲嘆述懐)

(浄土真宗に帰入するけれど、外面は真実らしく見せて、内心はうそいつわりのわが身であって、自分には真実の心はなく、清浄の心もさらにない。(親鸞和讃集 岩波文庫、1976年4月16日第1刷、名畑応順校注 二〇〇頁))

外儀のすがたはひとごとに

賢善精進現ぜしむ

貪瞋邪偽おほきゆゑ

奸詐ももはし身にみてり     (正像末浄土和讃(九五)、愚禿悲嘆述懐)

(誰しも外面の姿は愚悪怠惰を隠して、賢善らしく見せてはいるが、内心には貪欲瞋恚とそれにもとづく邪偽が多く、人をたぶらかすような心が数多く身に満ちている。(親鸞和讃集 岩波文庫、1976年4月16日第1刷 名畑応順校注 二〇一頁))

親鸞聖人はご自分の邪悪の心について単に一般論からさらに深く追求され、つぎのように慨嘆されました。

是非しらず邪正もわかぬ

このみなり

小慈小悲もなけれども

名利に人師をこのむなり     (正像末浄土和讃(一一六))

(物事の是非も知らず邪正も解らない愚かなわが身である。小さい慈悲さえもないけれども、名聞利養のために人の師となることを好んでいる。(親鸞和讃集 岩波文庫、1976年4月16日第1刷名畑応順校注 二一五頁頁), 更に、

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に

沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ること

を喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、

恥づべし傷むべし           (信巻 (顕浄土真実信文類三))

(しみじみと心から思い知らされる。なんと悲しいことであろうか。この愚禿釈の親鸞は  はてしもない愛欲の海に沈み、名声と利得の高山に踏み迷いながら、浄土にうまれる人      のなかに数えられることを喜ぼうとせず、仏のさとりにちかづくことをうれしくともお      もわないことを、本当に、恥じなくてはならない。心をいためなくてはならない。(世      界の名著6巻、親鸞 石田瑞麿編集・訳、二八一ページ、昭和五八年、八版、中央公論      社))

親鸞聖人は、自身の人間としての能力と洞察力に限りがあることを認識された方でしたが、念仏が真実であることには、確信されていました。

善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御

こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。」

(歎異抄・後序)

(私は善悪の二つについては全く知りません、というのは、私が仏さまのような明晰な判断力を持ち、善悪をはっきり認識できるならば、善と悪について知っていることになりましょうが、実は私は煩悩をいっぱいもって持っている凡夫で、私の住む世界は不安に満ちた無常の世界。そういう私が、どうして善悪について確かな認識を持つことができましょうか。およそこの世界で人間がすることは、すべて空しいこと、ばかばかしいこと、真実のことは全くありません。ただ念仏のみが真実である。)(歎異抄、後序梅原猛校注、一六三頁、講談社文庫、昭和五二年))

 ここで親鸞聖人ご自身が体験された信心について注目しなければ、聖人の全体像を示したことにならないと思います。聖人はご自分の能力や真実を見抜く力に就いて割り切っておられましたが、阿弥陀様のお慈悲を自身で体験されたことやご自身の生活にとって阿弥陀仏がどのような意味を持つかについては非常に明確でした。ご自分の体験に就いて親鸞聖人は、次のように言われています。

愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行ぞうぎょうを棄てて本願に帰す。(教行信証化身土巻 百十八)((現代語訳「愚禿釈の親鸞は建仁元年の歳、(千二百一年)「それまでの自力の雑行を棄てて本願に帰いました。」(「日本の名著」親鸞 石田瑞麿編集・訳 四三六頁 中央公論社 昭和五八年)

そして法然上人の名だたる弟子の一人として、聖人は法然上人の著「撰択集せんちゃくしゅう」を写し、師の肖像を描くことを許されました。その際の喜びを次のように残されています。

慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如

来の矜哀を知りて、まことに師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝

いよいよ重し。(教行信証化身土巻 百十八)

(現代語訳「なんと喜ばしいことであろう。いまわたしは心を広大な本願の大地にうちたて、思いを不思議な真実の海にまかせている。深く如来の慈悲の広大を知り、師の教えのご恩に報いたい思いはますます重くなるのを覚える。」(「日本の名著」親鸞 石田瑞麿訳 四三六頁 中央公論社 昭和五八年)

親鸞聖人は、先達の高僧等が書かれた書を学ばれ、み教えの深さに気付かれた時に、絶えず数々の感想を述べられています。この御感想が聖人の正信偈(しょうしんげ)(信心の歌)の基になりましたが、正信偈は、浄土真宗信心の概要をまとめたもので、多数の真宗信者が毎日称えています。師が本願を悟られ、阿弥陀仏のお慈悲にあって喜ばれたことが、聖人の勇気の源になりました。ご自身が不浄で、知識も不足していることは、はっきり解っておられましたが、阿弥陀様のお慈悲を信じて,師のみ教えに関しては,毅然とされ明解でした。聖人は、「親鸞におきては」とか「親鸞は」と前置きをされてから、御意見を述べられていますが、これは、「親鸞としては」とか「私の考えでは」と言う様に解釈できると思います。聖人は、今日の言葉で言えば、「(大胆に行動され)ずけずけ言う」ことを躊躇されませんでした。これらのご意見を拝察しても、必ずしも総ての人々が聖人に同意することはない事をご存知であったことが解ります。それでも、師は決してもったいぶった、独り善がりになることはなかったのです。自己中心にならず、しっかりとした自覚を持っておられました。

 親鸞聖人は、聖人の教えが真実であることを確信されておりましたが、他の人が皆、師に従えとは要求致しませんでした。又、聖人と意見が違ってもそのような人達を非難するようなことはありませんでした。従って、師の教えについて問われると、聖人は、これは私の信ずる事であって、何を信ずるかは-「面々の御はからひなり」-あなた方めいめいが自分で決める事ですと答えられました。

親鸞聖人のもとを去った弟子との論争の時、聖人は「親鸞は弟子一人ももたず候ふ。」と宣言されました。師に忠実な弟子達に、聖人がかっての弟子に与えた本尊・経文を取り返えす事は出来ないと言われ、その訳は、親鸞聖人の信心もその弟子の信心も同じく阿弥陀仏から戴いているからであって、聖人の持ち物として取り戻す事はできないと説明されました。(歎異抄第六章・口伝鈔第六章)

親鸞聖人が宗教上の信仰と人間関係についてどのように取り組んで行かれたかは、私達が真宗の信仰とそれに基ずく生き方を理解する上から大変重要です。聖人にとっては、人が頭では、お浄土に参らせて戴くことを信じていても、死後の世界がどうであるかについて、自分が持つ曖昧な気持ちを表しても構わなかったのです。聖人が正直に、隠さず、御自分をさらけだされたので、他の人々は皆、自由になれたのです。人を教える身であって、果たして何人が自分は、名声と利益を求める我欲のために教えているのですと認めるでしょうか?聖人には、権威主義・教条主義や支配・優越感を持たれる傾向は全くありませんでした。聖人は、弟子達を平等な仲間として遇され、お話しされるお言葉にも表れていました。聖人にとって、弟子達は、仏の道を共に歩む御同朋・御同行(おんどうぼう;おんどうぎょう)であったし、私達も同様です。

親鸞聖人のご人格が最も明らかに表れているのは、歎異抄第九章で、師唯円房と出逢いです。ある時、唯円房が親鸞聖人に向かって、私は、念仏しても、信心を持つ者なら当然抱く筈の、早く浄土へ行きたいと言う喜びや望みを感じませんと訴えました。親鸞聖人のお答えは見事でした。聖人は、直ちに、私、親鸞も以前、同じ問題と疑いを抱えていたと言われ、唯円房に安心しなさいと答えられました。次いで、阿弥陀様は私たちがどういう人間であるかをご存知で、私たちのような者の為だけに仏の本願を建てられたのですと説明されました。(歎異抄第九章)

法然上人の伝記の中にも同じ様な場面があります。弟子の一人が法然上人のもとに来て本願についても、お浄土に参りたいと言う望みについても疑いを持ちませんが、「とくまいりたきこゝろの、あさゆうはしみじみともおぼへずと仰候」(「朝な夕なに急いでそこに参りたいとも思いませんが。」)と述べたのに対して、法然上人は次の様に答えられたと伝えられています。「まことによからぬ御ことにて候。浄土の法門をきけども、きかざるごとくなるは、このたび三悪道よりいでゝ、罪いまだつきざるもの也と、経にもとかれて候。又此世をいとふ御心のうすくわたらせ給にて候、. . . .」 (「それは、まことに良いことではありません。大経にも浄土の教えを聞いても、聞いていないのと同然になる者は、まだこの三悪(地獄・餓鬼・畜生道)に満ちた世の中から抜け出て、自分の罪から逃れ得ていない人であると説かれています。 また、この世をそんなに嫌っておられるわけでもないでしょう。」)(法然上人行状絵図 第二十三 御法語 巻三 一六二ページ)

私たちはこの両方の出来事を比べてみますと、浄土真宗の伝統外の人々を引き付けた親鸞聖人のお人柄の高さと、人間関係が判ります。聖人は、他人の問題をご自分のものとして親身になって見ることができたのです。決して人の上に立って、人々の誤りを指摘されるような方ではなっかったのです。聖人は、誰も見下したりせず、誰にもご自分の持つ表準に達するようにと要求されることはありませんでした。聖人は、ご自分の弱点や限界をためらいなく認められましたが、同時に師が自ら体験されたことについては、自信を示されました。

親鸞聖人にとっては、本願はすべてのものとの比較や区別を許さないものでした。その点、次のように、述べられています。

弘誓一乗海は、無礙無邊、最勝深妙、不可説不可稱不可思議の至徳を

成就したまへり。〔教行信証,行巻、岩波文庫 金子大栄校訂 百十一頁〕

(試訳:「本願の誓い-すべての者を救って捨てない阿弥陀仏の誓いを説く教え-は、なにものにもさまたげられない、限りがなく最も勝れた、深遠な、説くことも言い表すことも思い計ることもできない、無上の徳を成就されました。」「日本の名著」親鸞 石田瑞麿 中央公論社 参照)

 

金剛石のような信心は、絶対的で他に比べようがありません。親鸞聖人が本願が至上であると理解されていた内容は、教行信証の中のお言葉にありますが、これは、聖人の著作や宗教全般に於いて、信心、つまり、真にお任せすることについて書かれた中で最も大切なものの一つです。

よそ大信海を按ずれば、貴賎緇素をえらばず、男女老少をいはず、造罪の多少

をとはず、修行の久近を論ぜず。行にあらず。善にあらず。頓にあらず、漸にあらず。

定にあらず、散にあらず、正觀にあらず、邪觀にあらず、有念にあらず、無念にあらず尋常にあらず、臨終にあらず、多念にあらず、一念にあらず。たゞこれ不可思議、不可称、不可説の信楽なり。たとへば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬は、智愚の毒を滅するなり。(顕浄土真実信文類 三)

(現代語訳)

いったい、海のように広い大信について考えてみると、それには、身分の上下や,出家・在家のへだてなく、男女、老幼、の別なく、犯した罪の多少ともかかわりなく、    修行期間の長短も問題とならない。それは、自分が行う行でもないし、自分が行う善             でもなく、また自力ですみやかにさとる教えでもないし、漸次さとりに近づく教えでもない。心静かな観想によるものでも、普通の心で行なう善でもなく、正しい観想でも、まちがった観想でもなく、姿・形のあるものを   観想するものでも、姿・形のない ものを観想するものでもない。平生のきまった作法によるものでも、臨終の作法に よるものでもなく、数多く念仏するのでも、一遍とかぎったものでもない。それはた    だ、思惟を超えた、口にも文字にもあらわせない信楽なのである。たとえば、不死の 薬が良く一切の毒を消すように、如来の薬はよく智者や愚者の自力の毒を消すのである。「日本の名著」親鸞 石田瑞麿編訳 二六三頁 中央公論社 八版昭和五八年)

      私達は特に、最後の語句に注意すべきです。本願は私たちの持っている知恵や無知の害を無くしてしまいます。私たちは当然自分の無知を乗り越えようとしますが、知恵の持つ害に気がつき易くないのです。しかし、これこそ親鸞聖人が際立っておられることを示しています。聖人は、私たち自身がつくろう外見と見せかけを見破られ、私たちが他人に対して優位に立ち、権力を持ち、支配しようとする姿勢を見通されました。聖人は、阿弥陀さまの本願の教えに表された精神性の理想像に照らされ、さらされたときに、このような見せかけの姿勢を他人でなく、主にご自分の中に見られていたのです。