第4章- 第四章:浄土経のもつ全く新しい教え

第4章- 第四章:浄土経のもつ全く新しい教え

第4章- 第四章:浄土経のもつ全く新しい教え

親鸞聖人が本当に歴史上、宗教上に果たした意味について、私たちは、仏教の史実の中で捉えることが出来ます。広い意味で言えば、聖人は、絶えず広く行き渡って行く仏の慈悲の規模と深さを代表する方です。当時の鎌倉時代(1175-1232)に、仏教は、それまで主に出家制度下で選ばれた特権階層の運動から、次第に、人生経験や知的・精神的な能力の如何に関わらず、すべての人々に希望を与える宗教へと変貌して行きました。大乗教の初期でさえ、より広い範囲の人々を受け入れるようになり始めたとき、苛烈ないざこざがあったと言う証拠があります。旧宗派の人々は、この新改革者の教えを自分たちの地位を脅かすものと見なし、偽の堕落した仏教であるとして非難しました。

親鸞聖人の時代にも、師である法然上人が広められた浄土経の教えに反対する当時のエリート教団権力者たちが同様な争いを起こしました。この新しい教えに反対する末法時代の人々のことを、聖人は、目も、耳も持たない人々のようだと記されています。実に、阿弥陀仏の限りない慈悲の本願(宣言)によって念仏を信ずる心さえ持てば、全ての人々が涅槃〔悟り〕に達する道が開かれたのです。これによって、特権階級の密教と顕教をあわせもつことで知られた、尊大な真言宗・天台宗寺院の教義、修行、儀式の込み入った体系が余り必要でなくなってしまったのです。

往々、宗教は、人々を善人・悪人、偉い人と劣った人、救われた人と救われない人達に分類する傾向があります。それに対して、人はみな実質的には平等で対等であると言う教えでは、人々の我欲や教団の地位が脅かされるのです。人々は、自分達が偉いと誤って思い込んで我欲を伸ばしたり、宗教教団は、何か特別な精神的な地位とか特権があると称して、人々を支配したり操ったりしたがります。仏教でも教団が制度化するにつれて、自分達は特権のある人間であると思う傾向が出てきました。

浄土経の伝統は、歴史上の型破りで、道を求める人々に易行道(より容易な道)があることを提案しました。中観学派の仏教哲学者であった竜樹大士は、著述のなかでこの点に留意せよと繰り返されたと伝えられています。後に、中国の高僧曇鸞大師が提唱した他力と自力の区別に見られるように、仏は、弱者や能力の低い者に手を差し伸べられたのが分かります。その後、仏の御名を唱える(念仏)ことが阿弥陀仏の第十八願の意図にぴったり合うお勤めになって行きました。道綽禅師は、本願が念仏を実践するお勤めのことを意味していると解釈されました。古代では、仏の徳は、御名前に宿っていると考えられていました。この説は、名前には、人の徳を表すとか代表すると広く信じられていたことに基づいていました。

名号を念仏するお勤めが定着するにつれて、出家制度が独り占めしていた宗教界にひびが入り始めたのが窺えます。中国の浄土教の先達である道綽禅師は、浄土道が特に末法(仏の教えがすたれ、教法だけが残る最後の時期で、中国では西暦552年に末法が到来したとされています。)の時代に向いていることを示されました。したがって、この時代では、この世での煩悩を取り除かなくても、救いが得られることになっています。罪を犯した者でも希望が持つことが出来ます。善導大師は、道綽禅師の教義を取り上げ、その基本となる原理を系統立てた観経疏(観無量寿経の注釈)によって浄土教の教えをさらに強化されました。師は、念仏を正しい、即ち真のお勤めであると確立されましたが、これは、そのお勤めが二通りの深い信心に基づいており、一つは自分の業の悪に気付くこと、およびこれに相当してその悪を受け入れて下さる阿弥陀仏の慈悲に気付く場合にそうでした。善導大師は、難しい出家の行に比較して、一般の人々も末世では仏の慈悲の対象であると言う原理を確立されました。

この教えは日本に伝えられました。仏教が日本に受け入れられ、順応するのには、永い時が掛りましたが、やがて一般の人々の生活に浸透していきました。この順応の過程で、仏教は少数の人たちにとっての学問的な、出家僧や貴族のカルト(新興宗教)から大衆に希望を与えるみなもとになるものに転換していきました。このことに気付かれた法然上人(1133-1212)は、独立した浄土宗を打ち建てようと決心されました。上人は危機と変動の時代に苦労されましたが、当時浄土教は、困窮した大衆に生気に満ち、はっきりとした生きる希望を与えました。鎌倉時代の日本では、混乱の時代であった為、人々は世のはかなさに打たれ、戦争と暴力によって生活の崩壊を体験するにつれて、自分達の生活についてもっと深く考えるようになったのです。この事情は、法然上人の父が殺害され、それで上人が出家されることになった例から判ります。父は、敵討ちよりも祈願してもらいたいと言い残されました。

このように仏教に転換がおこりましたが、これは、主として法然上人によって行われました。しかし、この以前にも時として空也(903-972)と良忍(1072-1132)のような僧が現れ、民衆の中に入り、一般の男女の人々に阿弥陀仏のお慈悲を授けられたことを忘れてはなりません。比叡山天台宗主で、著名な源信和尚(942-1017)も一般民衆を集め、阿弥陀仏に帰依するお勤めを行いました。和尚は、浄土の無上の喜びと地獄の恐ろしさを描写した、重要な手引きとなるものを「往生要素」に記述しました。しかし、注目すべき点は、この人達の活動から何ら主要な、或いは広範な運動へと発展しなかったことです。明らかに、この様な僧達の教えが一般民衆に対する慈悲の心から起こったのですが、天台宗に基づく考え方は、人々にとって理解するのが難しかったのです。 しかし既存の教団に挑戦しなかった為に、これらの僧は、迫害を受けませんでした。

しかし法然上人は、善導大師の教えに従い、自身の活動に教義上の裏づけを与えようとされました。当時の、古くからある教団がこれを知るところになったので、伝統を脅かす上人の教えを止めさせ、指導者たちを追放するよう、政府に要求しました。自分たちの人気が落ちるのを恐れて、この伝統教団は、法然上人の教えが仏教に混乱を招くだけでなく、社会に有害であると主張したのです。

何故、教団の人々がそのような厳しい努力をしてまで法然上人の浄土経の信徒の集まり(さんが)と教えを滅ぼしたり妨げようとしたのでしょうか?どうしてあの強力な精神的、政治的にも確立していた教団が上人を恐れたのでしょうか?浄土仏教の教えは、過去千五百年以上も存在していたのに、このような激しい反発が起こったことがありませんでした。

法然上人は念仏を唱えることに絞られましたが、善導大師の教えを全く根本的に新しく解釈し直されました。それは、お浄土に往生させて戴くことが出来ると心から信じて、仏の名号を称えさえすれば、それで良いというものでした。法然上人はご自分の考えをはっきり表す為に、選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)と言う書(阿弥陀仏が選択された本願の念仏についての要文を集めた書で、選択集と略)を著されました。上人の使われた選択(えらぶこと)と専修(称号のみを修める)のこの二つの主要な言葉は著名になりました。法蔵菩薩の本願を記した大無量寿経の伝えを基にして、上人は、この初期の菩薩(後に仏陀になられた)が理想的世界を作り上げようと努力されていたことに気付かれました。それは、生きとし生けるもの全てが悟りを達成できる世界であって、菩薩は、数多くの仏の世界にある色々な方法と理念の中から、浄土を作り上げる点で最も優れたものを絶えず選ばれていました。

法然上人は、このように仏教を宗教的信仰に達する重要で選び抜いた途であると考えられました。仏教の経文および高僧達は、仏教の教えとその実践は、本人の性格と時代に合ったものでなければならないと教えて来ました。したがって、善導大師が阿弥陀仏に専念・修行されたのに従い、法然上人は、仏の名号を称えることが佛の第十八願に示された、真実の行であると主唱されました。末世では、これだけが僧侶・在家を問わず浄土に往生できるもとでした。これ以外の形の行に従事したり、他の仏陀に帰依したりすることは、仏の本願に反することでした。一般に日本の仏教が普遍的な折衷主義であったのに比べて、法然上人は、浄土経の教えを、独特な教えであるとされたのです。

上人は、独特な教えであると言うことを、次のような「」で示した言葉使いで示されましたが、それは、選ぶこと「選択」、唯一のお勤め「専修」、一途に「一向」と言う言葉でした。又、念仏以外のお勤めでは、千人に一人でも浄土に生まれることは出来ないと、次のような言葉で主張されました、それは、拒否する「捨てる」、閉じる「閉める」無視する「差し置く」、却下する「投げ打つ」でした。

法然上人の教えは、暗に他宗の仏教をすべて捨てられましたが、それは、念仏によって聖人も俗人も一様に救済されることができたからです。唯エリートや精神修行の進んだ人々を救うだけであった伝統的な教えは、一方、念仏の教えを程度の低い路であると見なしていました。選択集には、法然上人が当時の仏教を批判し、それを劇的に述べられて読む人に感銘を与える一節があります。上人は、「若し阿弥陀仏が富、知恵、或いは徳の高いことが浄土に往生できる資格であるとされていたとするならば、それを成就できる人は少なかったであろう。」と言われています。どうしてかと言うと、大抵の人は、貧しく、学問が無く、徳も高くないのです。阿弥陀仏が求めたことは、簡単でも真心で佛の名号を称えることだけでした。称える人の人格ではなくて、名号のお陰で浄土に往生できるのです。上人の宣言文は、やや長いですが、それだけの価値があるので、下に引用しました。

「ゆゑに知りぬ、念仏は易きが故に一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。しかればすなわち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもって本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望を絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤の者ははなはだ多し。もし智慧高才をもって本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望を絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。もし多聞多見をもって本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望を絶たん。しかも多聞の者は少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもって本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望を絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒の者ははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。まさに知るべし、上の諸行等をもって本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざる者は多からん。しかればすなわち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんが為に、造像起塔等の諸行をもって、往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもって、その本願となしたまへり。」

(「浄土真宗聖典・七祖篇」 千二百九頁 本願寺出版社一九九六年三月二十日)

現代語訳

「このような理由で知ることができる。念仏は容易であるから、どんな人にもできるが、ほかの行為は行なうのに困難であるから、あらゆる人の能力に応ずることができない。それであるから、一切の生きとし生けるものを平等に往生させようとするためには、困難なものを捨て、容易な行為を取って、仏の本願とされたのであろうか。もしも、堂塔を建立し、仏像を造ることによって本願とされると、貧しく賎しい者たちは往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、裕福な者は少ないのに、貧しく賎しい者は非常に多い。もしも、智慧や才能のすぐれた者をもって、本願の対象とされるならば、愚かな智慧のない者は往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、智慧ある者は少なく、愚かな者は非常に多い。もしも、よく見、聞いて学問をしている者をもって、本願の対象とされるならば、わずかしか見聞きしないで、学問をあまりしていない者たちは、往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、よく聞いて学問している者は少なく、学問のない者は非常に多い。もしも、戒律を堅持している者をもって本願の対象とされるならば、破戒や無戒の人は往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、持戒の者は少たく、破戒の者は非常に多い。それ以外の行為をする者もこれに準じて理解することができよう。当然これで理解できたのであるが、以上の多くの行為をもって、本願とされるならば、往生できる者は少なく、往生しない者は多いことであろう。それであるから、阿弥陀如来が法蔵比丘であられたはるか昔に、あらゆる人びとに平等の慈悲をおこして、あまねく一切を摂おさめ入れるために、仏像を造り、堂塔を建立するなどの多くの行為をもって往生の本願とはされなかった。ただ称名念仏の一行のみをもって本願とされたのである。」

(石上善応訳 「日本の名著」5法然 選択本願念仏集 p129 昭和56年12月10日5版中央公論社)

この見方から導かれる上人の教えの内、上人の反対者等が痛く驚いた点が一つあります。それは、単純に信心をもって念仏を称えるだけで、仏教の哲学上の用語・意味やお勤めに必要な事項が判らなくても、浄土に往生できることが保証されていると、法然上人が言われた点です。これ等の事項は、信者が意識して理解しているか否かを問わず自然に自分のものになるとされました。 この点について、上人はかの有名な一枚起請文で次ぎのように言われています。

「唐土我朝(もろこしわがちょう)に、もろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。 また学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申してうたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。この外に奥ふかき事を存ぜば二尊のあはれみにはずれ、本願にもれ候うべし。念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。」一枚起請文(いちまいきしょうもん)

浄土宗ホームページ/浄土宗

(現代語訳)

                「私の説いてきたお念仏は、み仏の教えを深く学んだ中国や日本の高僧の方が理解して説かれて          きた、静めた心でみ仏のお姿を想い描く観念の念仏ではありません。また、み仏の教えを学びと              ることによって、お念仏の意味合いを深く理解した上でとなえる念仏でもありません。阿弥陀仏              の極楽浄土へ往生を遂げるためには、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」とおとなえするのです。              一点の疑いもなく「必ず極楽浄土に往生するのだ」と思い定めておとなえするほかには、別にな              にもありません。ただし、お念仏をとなえる上では、三つの心構えと四つの態度が必要とされま          すが、それらさえもみなことごとく、「『南無阿弥陀仏』とおとなえして必ず往生するのだ」と              思い定める中に、おのずとそなわってくるのです。もし私が、このこと以外にお念仏の奥深い教              えを知っていながら隠しているというのであれば、あらゆる衆生を救おうとするお釈迦さまや阿              弥陀さまのお慈悲にそむくことになり、私自身、阿弥陀さまの本願の救いから漏れおちてしまう              ことになりましょう。お念仏の教えを信じる者たちは、たとえお釈迦さまが生涯をかけてお説き          になったみ教えをしっかり学んだとしても、自分はその一節さえも知らない愚か者と自省し、出              家とは名ばかりでただ髪を下ろしただけの人が、仏の教えを学んでいなくとも心の底からお念仏              をとなえているように、決して智慧あるもののふりをせず、ただひたすらお念仏をとなえなさい              い。」建暦二年正月二十三日

(浄土宗ホームページ/浄土宗

 法然上人の考え方が知れ渡るにつれて、明恵(高弁 1173-1232)上人のような著名な僧がそれを痛烈に批判し、疑義を称え、摧邪輪(ざいじゃりん)[邪(悪な法の)輪を摧(くだ)く)を著しました。明恵は、法然上人が大乗仏教の主要な原理である空と矛盾し、仏教の戒律の基礎をなす菩提心の理想を捨てたと非難しました。親鸞聖人と鎌倉時代に同時代の日蓮上人は、人が念仏を信じ、お勤めすると、これは阿弥陀仏を称賛し、お釈迦様をないがしろにすることになるので、永久に地獄に落ちることになるぞと宣言しました。

 私たちは、しかし法然上人の考えを当時の伝統を通じて見なければなりません。仏教では心を制することに重点をおいています。人は、努力して心から迷いを除き、悟りに達するよう心掛けます。伝統的には、仏教の行の前提は、人が悪を除こうとする努力こそ菩提心であり、悟りに達しようとするとする強い発願と決心でした。仏教の宗派によって、菩提心はその宗派のお勤めと関聯があります。菩提心が色々なかたちで表わせることを承知されていましたが、法然上人自身は、菩提心が現代には通用しないと撥ねつけられた出家・聖道の理想と同じであると、見なされました。ご自分の経験から菩提心と言う考えを捨て、念仏の易行道を強調されたと思います。上人は、弟子たちに、伝統的な出家・瞑想の伝統では重要であった、空、無我、全てのものとの連帯感あるいは一体感を通じて悟りに達せんとする発願心を起こせと強いることはありませんでした。法然上人が一途に力を注がれたのは、全ての人達が広く救われると言う希望を与えることでした。

 結果として、上人を非難する人達は、「悟りに達し仏性を発願しようとする行を撥ね付けることによって、法然上人は、すべての仏教の行のなかで最も基本である考え方と意欲、つまり、悟りに達せんとする発願心を捨てしてしまった。」ととがめました。実際には、上人は、菩提心を利用することを拒否されたのです。

 浄土経の伝統では、聖道行に関連する菩提心の考えは、観経の三心の教え、つまり、正当な仏教の行、或いは仏の名を唱えるのに欠かすことが出来ない教えにより拡充されました。これら三つの心は、至誠心・深心・回向によって浄土に往生しょうとする発願心です。観経に基づいて、浄土経の宗派が違っていても、善導大師は、帰依するあらゆる階級の人々がこの三心を持たなければならないと言われました。このままでは、この教えは聖道の考え方と同様困難であり、其のため、善導大師の教えは、法然上人の解釈とは違って、決定的な反応を受けませんでした。大師は、このような行をするのには心の準備が必要だと思われたのです。

法然上人は、正当に念仏を称えるのに三心が必要である点、善導大師と同じ意見でしたが、このことは、人が三心がどのような条件・理論に基づいているかを知らなければならないと言うことではないとされました。信者は、唯信心をもってお称名するだけで、その三心は、自然に其の行いに含まれていたのです。上人は、この三心が表わすそれぞれの名前を知らない人でも往生すると提唱されました。これ等のことを詳しく学び議論し得たとしても、このような知識が上っ面だけで、深みも現実性も無いことがあるといわれました。(法然上人「拾遺語燈録」真宗聖教全書(京都:興教書院 1957.)IV 758頁)上人に反対する人達は、法然上人は仏教の行を単に言葉をつぶやくだけのものにしてしまったとみなしました。道元禅師は、法然上人の念仏に就いて、蛙の鳴き声みたいものだと言っています。しかし、明らかに上人は、浄土宗の教えが阿弥陀仏による救いとして最も下積みの罪深い大衆でさえ広く接することが出来ることを意味し意図されている点をよりどころにされていたことが判ります。

法然上人の教えは、明らかで判り易い道を求めていた当時のすべての人々の願を表しています。前述のように、上人はご自身の父が殺害された悲劇を通してこの道を求めるという気を起こされたのです。幼年で世間から隔離された出家の世界に入られましたが、上人は、不安に苛まされて日々の厳しい生活を強いられた民衆の苦境に同情され、戦乱で罪悪観に打ちひしがれ、自分達の究極の運命がどうなるか確かでなくなった状況について思い悩まれました。

法然上人の教えがどのような教義上の問題があったにせよ、上人は、念仏を唱えることを教えの中心の柱とされたことで、大胆に希望の門を広々と開けられました。上人のお考えが過激であったので,比叡山の僧侶達は上人の墓を暴いたりしましたが、親鸞聖人のお考えで明らかにされたように、一方で人々は、法然上人が自分たちの心の中では、阿弥陀仏の表れとして見ていたのです。法然上人の教えがあまり広く行き渡ったので、日蓮上人は怒りの余り逆上し、人々はそんなにだまされるのかと言ったくらいです。法然上人に反対する人々は上人の教えを邪教であり、非仏教・反社会であると批判しましたが、誰も法然上人がもたれた広い慈悲の心を疑えませんでした。

修行と言う点では、上人は、明らかに古くからある出家型の仏教団を否認され、京都市、吉水にご自分の集団を置かれました。上人は、過ちを起こした弟子の僧侶達に向かって、戒律に従い、秩序を保つようにと諭されましたが、あらゆる階層の人々を受け入れました。例え、泥棒、売春婦、男女を問わず、武士、農夫、商人であっても関係なく念仏を通して、阿弥陀仏の慈悲を差し伸べられました。上人はご自分の島流しを、他の人々に仏の教えを分かち合う機会が増えたと考えられました。

上人の没後、弟子たちは、法然上人がはっきり明言されなかった点について明確にする必要がありました。中には、批判に向かってより妥協的な人もいました。しかし、親鸞聖人は法然上人の改革を徹底的に受け継がれ、法然上人の教義的表現を深め、これまでの仏教の伝統との調和も図られました。

法然上人の教えを通して、親鸞聖人はご自身の心の中で阿弥陀仏の本願の慈悲の深さを体験されました。ご自身の心の内部での精神的悩みから、阿弥陀仏が人々を抱き、決して捨てたり放棄しないと言う全く慈悲の姿であると考えられるようになりました。親鸞聖人は、この信仰を基にして信心の本性の問題を取り上げ、善導大師の教えた、守らなければならない観経の三心から、大経の十八願の三心に注意を代えられました。このように変えられたのは、宗教のお勤めの意味を異なった位置から見ると言うことを表しています。親鸞聖人にとっては、念仏を称えることより、信心が重要な意味があったのです。必要な三心は、実際には本願の結果として、阿弥陀仏から私達に与えられるのです。三心は私達に阿弥陀仏のお心として与えられ、一心な信心の中に表れます。従ってこの信心が御名を称えさせているのです。信心を起こさせ、あるいは呼び出すのは、念仏を称えるからではないのです。信心が基本です。宗教を実践するのは、すべて阿弥陀仏の本願の真実に信を置き、確信として表される深い心の中の転換を示しているのです。

親鸞聖人が法然上人を深く尊敬し、上人が浄土教の真の意味を表されたと信じておられていた事は、明らかです。高僧和讃の中で次のように詠われています。

智慧光のちからより

本師源空あらはれて

浄土真宗をひらきつゝ

選択本願のべたまふ

(現代語訳:弥陀の智慧を司る勢至菩薩の智慧力から源空聖人がこの

世に現われて、浄土真宗を開いて、選択本願の念仏を宣布せられた。)

(名畑応順校注「親鸞和讃集」岩波文庫 135頁 岩波書店1976年4月16日発行)

 

善導・源信すゝむとも

本師源空ひろめずは

片州濁世のともがらは

いかでか真宗をさとらまし
(現代語訳:たとい善導大師や源信和尚の勧めがあっても、源空聖人の弘通がなかったならば、小国の末世に生まれた我々はどうして真宗の本願の念仏をさとろうか。さとることはできなかったであろう。)

(名畑応順校注「親鸞和讃集」岩波文庫 135頁 岩波書店1976年4月16日発行)

このような関係があったのですが、それにもかかわらず親鸞聖人は、法然上人が探求され残された問題点を深く掘り下げられました。大切な点は、浄土教に対して菩提心がどう関係しているかです。親鸞聖人はこの問題点を信心に関する教行信証の中で詳しく取り上げておられます。

聖人は、救いが誰にでも手に入れられることを強調された法然上人の教えを更に前進させました。しかし、親鸞聖人は、信心は自分で起こすのでも、念仏を唯称えさえすれば生ずるのではないと解釈されました。それは、阿弥陀仏の慈悲によって私たちの心の中にある仏性の働きとして与えられると解釈されました。私達の信心・信仰を偉大な菩提心と一体化させることで、法然上人のお考えの問題点を解決されたのです。

親鸞聖人は菩提心の意味を浄土仏教に取り戻されましたが、この構想の重要点を伝統的な自己志向から大きく転換させたことです。聖人にとっては、人間が自分で菩提心を起こそうとするのではなくて、私達を求める阿弥陀仏の持つ真の心と願望として私達の信心の中に明らかになるのです。親鸞聖人は、このようにして、菩提心の範囲をある宗派のお勤めに関係していた、限定され定義から、すべてに悟りをもたらそうとする普遍的な願いのビジョンに変えられました。信心とその基盤についての理解を成し遂げられたことで、親鸞聖人は法然上人のふさわしい後継者となるだけでなく、仏教の歴史全体からも聖人が重大な意義を持っていることを示しています。其のために聖人は新しい宗派、つまり、浄土教の真の宗派(浄土真宗)の宗祖として尊敬されるようになったのです。

浄土教の中心として菩提心の考えを再建することで、親鸞聖人は、信心の意味をより徹底的に他力の観点から解釈する道を開かれました。そして、法然上人の批判者が非難したように念仏が単にもぐもぐつぶやく言葉に終わることの無いようにされました。親鸞聖人にとってそのようなものではなくて、念仏は、人が仏の慈悲に抱かれており、決して捨てられのではないというあかしでした。それは、決してご利益を授かり救いを得るための道具ではなく、救いそのもののあかしでした。感謝することが信心の根本的な表現になりました。宗教が自己の利益を主張することから離れて、私達が頂いたものに気付き、頂いたものを他の人達と分け合う責任感になったのです。親鸞聖人はご自分の座右の銘として、自信教人信(自ら頂いた信心を他の人達と分け合いましょう)と言われました。

親鸞聖人がなされたことは、真宗仏教と仏教一般に使われている言葉や意味を新しく整理されただけよりさらに大きなことです。大事なことは、普通に理解されている宗教と言う言葉を新しく解釈されたことになります。念仏を称えることが救いを得る手段ではなくて、これは阿弥陀仏が本願を通して私達に与える救いに気付いて、それを言葉で表す手段であると、説かれました。親鸞聖人の思想の中では、宗教を実践することによってわがままな敵対心や支配力を助長するような余地はありません。感謝と慈悲が生活の本質であると言うことが、親鸞聖人の浄土真宗の教え、実に宗教それ自身の新しい、画期的な生き方の中心になっています。