第14章 妙好人:模範的な信心

全体的な生き方として念仏を見る時に、私たちは、すばらしい浄土真宗徒の方々に出逢います。それは「妙好人」、あるいは「この上なく優れた人」と呼ばれる人達です。この人達は、伝統と組織のお役所主義という情況にあって、個人の信心の模範として現代の浄土真宗に大きな影響を及ぼしてきました。鈴木大拙博士のJapanese Spirituality, A Miscellany on Shin Buddhism, Mysticism: Christian and Buddhist (「日本の霊性、浄土真宗および神秘主義に関する文集: キリスト教と仏教」)に書かれた「妙好人」の研究は、これらの長い間無視されてきた敬虔な信徒に対する大きな関心を呼び起こし、妙好人は浄土真宗の宗教生活の最先端に位置するように成りました。

妙好人の重要性は、世界の宗教の現状を見ればはっきり分かります。主な宗教はすべて、その正規の形式をこえて本当の姿とそれぞれの宗教のより深い精神的な次元の理想像を生み出してきました。キリスト教では聖人が、イスラム教ではスーフィー聖者、ユダヤ教ではハシド、道教では賢者、ヒンズー教では導師または聖者、仏教では阿羅漢と薩菩などです。一般的な日本の仏教史では、菩薩と聖(ひじり)です。

宗教が深い影響を与えようとするなら、単に理屈ではなく、これらの模範となる人々、真宗では、妙好人のように、人間の姿を通じて表さなければなりませんが、それにより、自分達の伝統の価値と精神を示すのです。妙好人という言葉は善導大師(613-681)著の観経疏に出てきます。善導は、真の信者を色々な言葉で呼ばれていますが、例えば「分陀利華(ふんだりけ)」(サンスクリット語のpundarikaで白蓮華)は、念仏信者を賞賛するのに経典の中で使用されています。大師はさらに、五つの高い賞賛の言葉を与えておられます、すなわち「好人」優れた人、「上上人」優れた人、「妙好人」、この上なく優れた人、「希有人」希な人、および最勝人(大変優れた人)です。これらの用語の中から、「妙好人」が念仏篤信者を表す称号として選ばれました。

鈴木博士によると、用語「妙好」は、白蓮華のこの上ない美しさを指しますが、それは泥の中に根を張っていても、清浄な花を咲かせることからきています。それは、信仰の厚い人達を表す仏教で大切なシンボルです。もし「1つが無学の尼のようにならなかったならば」(尼入道)、信頼に到達しないかもしれないと言いましたが、仏教ではこれに匹敵する言葉は余りありませんが、法然上人は、信心は「一文不知の尼入道(学問の無い尼入道)[一枚起請文]にならないと」得られないと説かれています。

妙好人と呼ばれる人々は、僧仰誓(1721-94)が編集した、「妙好人伝」の出版で江戸時代(1600-1868)に著名なりました。この書は、徳川時代末期に出ましたが、目的は浄土真宗の再興と、同時に封建制下の社会倫理を守るよう促すためでした。これらの優れた人々の伝記は最初に22人の伝記を含んでいました。その後、これは、主として百姓、その他商人および武士に関して150人以上の妙好人の物語を含む六巻にまたがるかなり大きな書物に成りました。

「妙好人」は一般に高い社会的地位を持っていません。これらの人々は、村、市場で様々な職業に就いていました。浄土真宗を含む浄土教仏教が日本で鎌倉時代後に迫害された時、これらの人々は受け身の姿勢を取る傾向がありました。この傾向は、精神性において向上の可能性が低劣な、仏教末期の時代を生きる衆生であると言う考えから強まりました。

妙好人は、現代日本の歴史上、様々な時期と情況下に現われましたが、最初は徳川時代で、その後現代国家体制に成った明治、大正、及び昭和年間に及んでいます。今日、妙好人は現代の民主社会の中におられます。

妙好人は、親鸞聖人と法然上人の教えを自分たちの生活の真髄にまで吸収し、只念仏に信仰・専念するお手本となり、この人達の美徳を自分のものにしたいと願う平信者の信心を奮い起こし、強めました。稲垣教授は妙好人についてこう記述しています。

妙好人は単に篤い念仏者ではありません。他力を理解し、阿弥陀仏との一体感を味わったので、衆生一切を摂取する阿弥陀仏の慈悲に完全に帰依しています。自分達が全く無力なことを痛い ほど知っている為、阿弥陀仏に常に感謝し、日常生活は自然に湧き出る喜びと無欲な愛で一杯      です。

                拙訳 Internet

          鈴木博士は、数人の妙好人について研究し、特に浅原才市が優れた信仰心を自ら持たれていたことを強調しています。博士は、才市が浄土真宗を根本から、かつ純粋に体現していると誉めています。一般に、妙好人の宗教体験は心の中に葛藤があり、信仰の道を探索しようとする点に特徴があると言えます。

妙好人の間で信仰の強さは異なっています。妙好人は世間的には非常に消極的にも見えます。しかしながら、実際の社会生活では、妙好人は信仰を実行する生活を通して自分達の気持ちを表しています。浄土真宗の信仰び誠実性に基盤を置いているので、この人達は宗教的意識と自主的信仰の面で意味があります。

篤い宗教体験に起因する妙好人に特有な消極的な傾向は、単に従順のためだったのか、それとも一種の抵抗の形だったのかという問題が残ります。著名な歴史家である家永三郎は、これらの行いを強調するために選ばれた物語は、「権威に服従するだまされやすい態度」の人々を浮き彫りしたと言っています。(Galen Amstutz. Interpreting Amida: History and Orientalism in the Study of Pure Land Buddhism. (Albany, N.Y.: State University Press of New York, 1997.) p. 96. )これらの篤信者は独裁社会の体制の要求におとなしく従っていたことで非難されましたが、このように従順であったのは、必ず無意識に追従していたのではなく、現実の世の中との関係をより深く全体的に考えた結果服従していたのだと指摘する学者もいました。服従していても、必ずしも従来の社会の奴隷ではありませんでした。これらの人々は、内なる心が当時の社会体制を超越して自立していたのです。何百人もの個々の人々行動や態度が自己の信心と内に持った感性から生れるのですから、私たちは、これらの人々の社会に向けた態度を容易に決めつけることはできません。

自己の内省によって、妙好人は、「ありのままの真実」あるいは、「自然にそうなる」という意味の「自然法璽」に基づく大きな生活力が活動しているのを知覚し、阿弥陀仏としてのイメージを心に描いていました。親鸞聖人は晩年になって自然法璽章という短いが鋭い文章を書かれ、その中で簡潔に、利己的なはからいと自己主張とは対照的な他力についてのお考えに焦点を当てられました。(自然法璽章(正像末和讃)及び末燈鈔)妙好人は他力を自分の生活の本質と見なし、念仏のお勤めを通じて自分達に確認しました。妙好人の「ありがたい」「もったいない」「かたじけない」と感ずるような態度は、すべて、他力を深く意識していることを示しています。社会的または政治的な重圧の下で、このような態度は、一般に無抵抗・無害なものでした。鈴木博士はこう言っています。「妙好人の心の中には悲しみと喜び、恥と感謝、不幸と幸福がうまく混ざり合っている。良心は相反する感情が戦う所ではなく、いわばこれらを相互に許容し、適切に混和し、同時に融和する遊び場である。」(拙訳Daisetsu Suzuki: Collected Writings on Shin Buddhusm, Kyoto:Shinshu Otani-ha, 1973, p.86)

妙好人が阿弥陀仏と親しみを感じ、一体感を持っていても、自分達が信仰生活の権威ある専門家として優越感を持たなかったことは明らかです。これらの人達は、恐らく後の世の人々が自分達を褒めちぎるのきっぱり断られたでしょう。阿弥陀仏の一体感を持っていたにもかかわらず、妙好人は、阿弥陀仏が表わす知恵と慈悲の理想と自分達が相変わらず精神的に不浄である状態との間にへだたりがあることを悟っていました。才市は歌っています(鈴木大拙「神秘主義、キリスト教と仏教、X「才市の手記より」訳、板東性純・清水守拙、岩波書店、2004年2月25日、第1刷Ó財団法人松ケ岡 文庫2004年):

あさましや。

さいちこころわ、あさましや。

もをねん(妄念)がいちどにでるぞ。

にがにがしいあくのまぜりた(混った)ひ(火)がもゑる。

あくのまぜりたなみがたつ。

あさましや、ぐち(愚擬)のまぜりたひがもゑる。

じゃけんもの、あさましや、

…………………(同上 No. 104)

ありがとをござります。

みだのほんぐわん(本願)、なむあみだぶができたから、

われ[汝]があん(案)ずることわない

………..   (同上 No. 104)

ごをんうれしや、なむあみだぶつ。

もをねん(妄念)のをきば(置き場)をきけば、きほをいいたい(機法一体)。

なむあみだぶつ。

………..     (同上 No. 104)

妙好人は感傷的で感情的に見えるかもしれませんが、ここで問題としているのは、これらの人々が全身全霊を信心に打ち込み、その信心が自分達が置かれた境遇でどのようにほどばしったかです。角田師は次のように述べています。

これらの人々の生活では、感情が知性よりはるかに優れた地位を占めている出来事を多く知っ   ています。これらの人々にとって、信心とは、心の中でどのように感じるか、また、その感じ              をどのように、歓喜、叫び、笑いなどの行為で、外に出すかです。(American Buddhist, 16-11(Nov,    1972), p.3)

これらの人々は、歴史の流れの中に立ち、かつ、自分達の生括の問題に直面して、生活の本当の中味をより深く主観的に(自分なりに)分かっていたのです。全く親鸞聖人とキルケゴールの原理「真実は主観性である」にあっています。こういうことが分かっていたので、政治的に無力で、経済的に恵まれなかった条件にもかかわらず、自分達の生括と時代に意味を見つけることができたのです。これらの人々の生活は色々違っていましたが、真宗信仰が、誓約と希望にあふれる、このような「この上なく優れた人」を奮い立たせ得ることは、はっきりしています。

鈴木博士によれば、妙好人は心の中の抽象的な理論や配慮に振り回されて、信心の邪魔になるなことはありませんでした。この人達は「八万四千」の煩悩があっても流れ出る他力を頼みにしています。才市は言っています。

わたしや、はちまんしせん(八万四千)でも、

をやさまも、はちまんしせん。

これがひとつのなみあぶだぶつ。

(同上 No. 43)

妙好人の大きな特徴は、どんな悪い事や危険にもめげず心底から仏を受け入れる態度と、そのような困難な恐ろしい状況の中で、喜びと感謝を示せることです。これが出来たのは、信心の真宗体験を通じて人格を統一し、念仏に感謝と後悔の気持ちを同時に表現した為です。これらの人達の場合、心の中で道徳感の転換が起こり、仏陀と人が一体(機法一体)になれたのです。(第十三章参照)この心の転換を起こし、広く行き渡り、念仏によって表わされる仏との一体感と縁起(相互依存)の自覚意識は、人々の自由で遠慮のない生活態度に現われています。つまり社会で従順であることと社会倫理を越え、自然に根ざした、ありのままの自然(じねん)の態度です。

妙好人には、自我否定に起因する心の自立があり、その為に絶対的な仏法の真実との関係が生まれます。これらの人々宗教観の「教義的」基礎は、仏陀と生きとし生けるものの一体(凡仏一体。機法一体)の原理および親鸞聖人が強調された、自然法璽、つまり、ありのままの自然という上述した概念の原理から成りたっています。才市は、妙好人の真宗意識の微妙な非二元性のことを次のように簡潔に表現しています:

あさましやわしのこころ仁

な仁(何)がなう太(成った)かわしのこころ仁

こころがなう太つめも(詰め)もかぎり(限り)もないこころ

これ仁でき太たがなむ(南無)の仁じ(二字)

つめもかぎりもないのが

なむの仁じつめもかぎりも

ないのがあみ太(阿弥陀)

きほをい太いなむあみ太ぶつ(機法一体南無阿弥陀仏)

(同上 No. 54)

もっと情緒ある言い方で才市は叫んでいます:

よろこびわ、ふしぎなもの、

わしとあみだと、なむあみだぶつ。

(同上 No. 10)

ゑゑゑな(いいな)、

せかい(世界)、こくう(虚空)がみなほとけ。

わしもそのなか、なむあみだぶつ。

(同上 No. 11)

わしのこころとをやさま(親様)わ(は)

こころひとつ(一つの)なむあみ太ぶつ。

(同上 No. 13)

現代の批評家は、これら妙好人が慣例に従っただけであって、これらの特性が社会的には意味が無いと見るかもしれません。しかしながら、私達が現代の問題に取り組むのに必要な模範を考える際、妙好人の宗教基盤とそれがこの人達の生活とどう関係していたかを見落としてはなりません。このような態度が個人の生活にとって良いことだとしても、集団としての生活によいことかどうかと鈴木博士は尋ねています。しかし、皆が泥棒に対して抵抗せずに受け身でいれば、社会的な問題となるのです。社会は個人の集まりから成っていますので、私たちは泥棒にならない人々を育成するよう努力しなければなりません。このような育成のために、人生を浄土教の目で解明すれば社会に役立ちます。妙好人が実践した生活を広い観点で見ると、その大切なとことは、他力が、個人の生活のみならず、その集団である社会生活の基盤としても持つ意味が明らかになります。

親鸞聖人と同じく、妙好人は、自分自身の足りないところと悪いところを深く感じて表現しています。妙好人の一人である森夫人はこの意識を痛いほど伝えています:

あみだにょらいと、おやこになれど、

ときどき、ぼんのうが、でてならん。

ああはずかしや、なむあみだぶつ。

おもうまいとは、おもうてみれど、

おもうや、おもうほど、ましてでる。

ああはずかしや、なむあみだぶつ。

わがけ[我が機]、ながめりや、あいそもつきる、

わがみながらも、いやになる。

ああはずかしや、なむあみだぶつ。

いやになるような、ざまたれ、ばばに、

ついて、はなれぬ、おやござる。

ああ、ありがたい、なむあみだぶつ。

(鈴木大拙全集 第十巻 岩波書店 昭和44年1月6日発行、「妙好人」155頁)

このような表現のせいで、浄土真宗は、関心を持つ人達にとっては悲観的で否定的であると思わることがあります。 しかしながら、このように否定的に見えますが、実は人生に非常に積極的に対処する教えの入り口なのです。これらの人々より前の親鸞聖人のように、妙好人が自分の足りないところや弱点を深く意識することで、才市と森夫人の詩で見られるように、阿弥陀仏のかわらない思いやりが明らかにされたのです。これらの人々はこの意識それ自体が阿弥陀の光に照らされた結果であり、究極には悟りに到達するとの保証であると信じていました。そのように確信していたので、自分達の命がどうなるかと言う恐れや不安が氷解し、すっかり自身、仏を喜び、讃えることに専念し、おやさまと呼んで仏と親密になるのに任せたのです。おやさまと言う言葉が示す、自分の親のような阿弥陀仏を感じて、才市は歌っています。

わしのをやさま(親様)あみ太(阿弥陀)で

ござるわ太しやあみ太(阿弥陀)のこ(子)で

ござる  をや(親)をよろこぼ(喜ぼう)

なむあみ太ぶを

なむあみ太ぶわ(は)

をやこ(親子)のものよをやこなかわ(親子仲は)

これでわかるよ

(同上 No. 19)

私達は、これらの人々が自分の罪悪感を重要視していたことを見過ごしてはなりません。と言うのは、これは、自分達自身の心の内部の様子を示すだけでなく、時代に対する意見と判断を示しているからです。親鸞聖人と同じく、これらの人々は、その時代の腐敗を自分の中に受け止め、その腐敗に自分達も共に係わっていると理解していました。従って、当時の社会の要求に一応従順していたにもかかわらず、より深いレベルで生活と周りの人達を判断し係わっていたことが分かります。この世と浄土が精神的に一体であることを認めていましたが、世の中の悪についても知っていました。それが次の詩になったいます:

をそろしやうきよのしやば(娑婆)や
わむけん(無間)のご(業)をことごとく
みなむけんのありが太や
これがて(転)じて上をど(浄土)の
むけん
は無間の業をことごとく
みなむけんありが太や
これが転じて浄土の
無間

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妙好人独特の考え方に接するいちばん良い方法は、いろいろな状況に置かれたら妙好人はどう答えるだろうかを、実例から調べることでしょう。讃岐の庄松(しょうま)と言う人の物語が多く残っています。庄松は、自立心と仏陀に抱いた親密感の両方を持っていました。彼は臨時雇いに就いたり、放浪していましたので現代でいえばヒッピーのようであったと言われている。しかし、庄松の知能程度は親鸞聖人の正信偈と蓮如上人の御文章を暗記したことでも分かります。

庄松は上っ面の宗教や、意味を分からずにお経の文句を丸暗記するのを嫌いました。あるとき、(浄土真宗の)寺に参詣した時,昼寝しようと決め、阿弥陀仏像の前でと寝込んでしまいました。本堂に入ってきた信者達が仏様に無礼だと咎めましたら、庄松は返答しました。「おまえ達こそ面目ないと思え。わたしは父親の家にいるので、遠慮には及ばない。おまえ達は阿弥陀仏に対して継子のように振る舞っている」と。

最も印象的な庄松の行いの一つは、彼れが風呂屋で働いていた折、代官の背中を洗うよう言われたときに起こりました。背中を流しながら、庄松は言いました。「盗み食いしてよう喰らい、肥えとるのう」と、背中をポンと一つ打って、「ご恩忘れるな」と付け加えました。人々は皆、庄松がひどい罰を受ける思いました。なにしろ、当時の侍は下層階級の者を罪がなくても殺しても良かったのです。後刻、庄松は代官に呼び出されので、村の長老が命拾いしたければ心から謝りなさいとすすめました。しかし、仕返しに庄松をお手討ちにせず、代官は、その妙好人に「正直者よ、下がってよい」と言いました。 庄松は自分なりに、隠さず、思いのままに当時の日本の生活事情について物語っていたのです。(梯実圓「讃岐の庄松」で著者は「ご恩」は単に代官の人々に対してのみでなく、それを越えて仏恩も意味すると言っています。私達がこの世で従う規範を越えた、精神のきまりがあることを示しています。)

宗教についての興味あるコメントは、次の庄松の話の中にあります。ある時、庄松はお寺の助っ人として、裕福な施主が発起人の仏事のため、経文を運び込む役割がありました。その家に入る際、住職が「お前は台所の入り口から入れ」と言いました。[お経]を持った]庄松は「お前こそそこから入るべきだ」と答えました。ここで、庄松は住職が単に袈裟を纏っている(袈裟は得度していることを示す)だけで偉くて、庄松は尊い経文を運んでいたにもかかわらず賤しい人間と決めつけられた事についてコメントしていたのです。それは、仏の前ではみな平等であると、庄松らしく考えを表したものでした。この傾向は、遂に犬にお辞儀をするまでに至りました。僧侶からなぜと問われたとき、犬だって阿弥陀仏の誓願がかかっているから」庄松がと答えたのです。

妙好人の源左は、人々が落ち着いて信心に到達するのを助ける習慣がありましたが、そうする中で信心が真剣であることを表現しています。高齢になっても、彼はよく寒い朝でも家族の言うことを聞かずに外出するくせがありました。彼は忠告に答えて曰く、「私のことを心配してくれるのは有り難いですが、私は、この世で最も大切な用事で出かけるのですよ。この世の大抵なことはやり直しや埋め合わせが出来ますが、この生死の問題は一回しか機会がないのです。これをちゃんと理解しないと、この気の毒な人はすべてを失うことになるのです。」

源左は自分の境遇にユーモアを導入しました。友人から「あなたのの背中が曲がっていて、さぞ急いで歩くのが難儀でしょう。」と言われた時に、「いや、歩くのに全然問題ありませんよ、何故って、ご覧のとおり、わたしの頭はいつも自分の前にでているから、ただ、わたしの脚が間に合うように前に出ることに気を付けて、真っ逆さまに倒れないようにするだけさ。」と答えました。

それから、清九郎の例があります。清九郎は、非常に勤勉な農民で、他の農民は逃亡しましたが、お上が課した年貢を滞ることはありませんでした。当局に対する彼の忠実な態度を評価して、清九郎は、年貢の免除をうけ、領内の山から薪を取る特権を授けられました。彼は土地の管理も任されました。しかし、これは自分の宗教生活を邪魔をすることになるからと断りました。これは、当時の社会体制へ順応していたにもかかわらず、妙好人はその奴隷でなく、自分の生き様を維持していた例です。

ここに挙げた少数の例でも銘々が妙好人の特徴を身をもって示すだけでなく、完全に調和のとれた人として現われています。これらの人々の信心は自分たちにとって命であり、また命が信心です。人々が自分の生活の中で色々な食い違い、心の内と外の矛盾、および個人と社会生活のあらゆる点に取り組むことで、それぞれの時代の理想的な姿を表わしています。いかに篤い信心を持っていたかは、他の妙好人でもそうであり、蓮如上人の信奉者であった了顕に関する言い伝えのような例でも分かります。お寺の火事があった時、了顕は、火事から急いで逃れるのに一杯でお寺に置き去りになった教行信証の信巻を取り戻しに引き返しました。彼は火炎に包まれて焼死しましたが、この書は助かりました。

別の実例では、荒木又六と言う侍がいました。彼は始終念仏を称えていましたので、仲間が嘲笑しました。止めるようにと忠告された時、彼は「(本願の尊さ)自然と口に現れて、如何に止めんとしても止められざり」と訴えました。彼の批判に慎重に敬意を払おうと努めながら、彼は自分が称える念仏を人々が嘲笑しても耐えるという意味の歌を詠みました。彼は分の耳障りな念仏は水をも圧倒する高まる火のように我慢できないのですと答えました。これを聞いて批評家達は彼の誠意を誉め嘲笑するのを止めました。

これら二、三の例から妙好人の内なる決意、つまり自分達の宗教生活の基礎を形成した心情が分かります。直面した批判と自分達の間でも態度や行動が違っていたにもかかわらず、妙好人達は、人生とこの世の根本的真理を自分なりの考えに基づいて歴史上個人が態度を明確にし得る方針を示しています。

模範的な信仰者として、これらの妙好人が念仏信仰の何たるかについて大変意義のある表現を代表していると言っても過言ではありません。これらの人々は、浄土真宗の姿を、阿弥陀の慈悲のおはたらきと阿弥陀の誓願を絶対的に信頼する理想として具体的に示す鏡です。

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参考までに、鈴木大拙博士の英訳文をかかげます。(Mysticism: Christian and Buddhist(New York: Harper & Brothers Publishers,1957,p.196 ) から:How dreadful!
This world known as shaba
Is where we endlessly commit all kinds of karma
How thankful
All this is turned into (the work of)
the Pure Land ­­­ Unintermittently!