第5章 鎌倉仏教と親鸞聖人の自覚

第5章 鎌倉仏教と親鸞聖人の自覚

親鸞聖人や当時の日本の鎌倉時代の人々と同様に、私たちは目的を失った時代に生きています。仏教では、そのような時代を末法と呼びます。つまり、仏の教えが衰え、終末を迎える最後の時代を意味します。この場合、最早、以前に尊ばれた力強いシンボルが完全で意義があるものとして、多くの人の心を動かさなくなっています。このような時代では、人々の信念や決意をかき立て、全く心を動かすシンボルとか神話はあまりありません。鎌倉時代の仏教徒は、当時精神性に訪れた危機に瀕していろいろな解決策を模索していましたが、二十一世紀の今日、私たちは、当時の人たちが抱えていたと同じような問題に向かっています。

鎌倉仏教と親鸞聖人をよく理解するには、ここで一寸歴史について考えねばなりません。というは、歴史とそれが物語る人々の決意と誓約の例を通じて、現代の道を求める私たちは、自分たちの今後進むべき方向を決め、現代において決断する際の手引きを得るからです。親鸞聖人と同様に、私たちが住んでいる時代では、精神面を建て直し、現実の生活での意味と宗教面の遺産を解釈し直すことが必要です。

これを達成できる洞察を得ようとすれば、運動の起きた原点に戻り、当時の問題点を歴史と宗教の面から理解するしかありません。

日本の仏教で鎌倉時代は、独特な時代でした。この時代になって、以前仏教について認めた改革すべき重大な要素が、それぞれの性格と基盤を仏教の伝統に基づき、幅ひろく開花していきました。この時代とそれぞれの独自の人となりとの出会いで、各自が自分なりに自己を啓発し、仏教を、個性的に表しました。もっとも、これらは、最初余り広い範囲に影響を与えなかったのですが。

最近鎌倉仏教が、真に日本の仏教の改革であったかどうかという問題がかなり討論されていますが、ここではそういった論争に立ち入るわけにはいきません。しかし、これら宗祖たちの生涯および教えとそれらを代表すると主張する教団の発展との違いを考えると、それぞれ宗祖らの多様な考え方の中に、改革ないし更新の基盤がひそんでいました。

鎌倉時代に生まれた主な宗派の指導者は、法然、親鸞、および一遍(1239-1289)で、皆浄土教を代表していました。日蓮(1222-1282)は、法華経をたたえ、天台宗の教義を仏教の基盤としました。道元は、中国の曹洞禅を日本にもたらしました。当時のもう一人の高僧であった明恵(1173-1232)は、伝統的な教えに忠実に復帰しようと企てました。このような総ての努力の背景には、仏教の密教と顕教の組織がありました。これは、天台宗と真言宗の、当時の宗教界を支配していた寺院と荘園組織の念入りな行と華麗な儀式から成り立っていました。当時、宗祖・祖師であった人たちは、各々、改革者と見なされたか否かを問わず、独自の意義をもっていました。

鎌倉仏教の新しい宗派は長く続いた社会危機の時代に生まれました。この時代は、平安時代後期に始まり(おそらく十一世紀以降)、騒乱の波は首都の京都でも感じられ始めました。京都の北に聳える比叡山は平安時代の天台仏教の本山で中心地でした。西暦1052年は、日本仏教の歴史では、末法の始めと見なされるようになりました。この頃から首都京都の朝廷と多くの地方の豪族らと間のあつれきが激しくなりました。結局平家の一族が都の支配勢力となり、独裁政府を確立しました。平氏が自分たちの得た新しい勢力を当たり前と思い、驕りはじめると、源氏がやがて天下を取る兆しが出てきました。

源平合戦と言われた戦争は、壇ノ浦の悲しい合戦と幼い安徳天皇の入水による崩御で集結しました。この時点、1185年に鎌倉時代が始まったとされています。しかし、これで全て平穏になったわけではなく、朝廷は、勢力を取り戻そうと企み、これらの動きの結果、1221年に承久(じょうきゅう)の乱が起こりました。後に、十三世紀に至り、中国本土で得た勢力に乗じた蒙古の襲来が危ぶまれ、島国日本の混乱が高まりました。国内の政争と外敵(内憂外患)に加えて、疫病、飢饉、地震がしばしばあり、すべての人々がより悲惨になり、不安に陥れられました。主に上流階級で占められていた伝統宗教の教団も農民の労働に糧を仰いでいました。不安な状態のため、大衆は、その精神面での欲求を満たす新しい考えをもたらす、新らしい指導者が立ち上がることを望んでいました。

既成の宗教が社会の支配階級による圧政やごまかしから解放されると、今度は、希望を呼び起こし人間の精神を自由に解放するものです。元々あった普遍的な本性と真実の探求心が現れてくるものです。私たちは、このような社会あるいは個人的生活に争乱の起きる時代を、決して喜んだり、望んだりすることはないでしょうが、人の精神面には良いことがあります。その訳は、悲しみの生活と世間に明け暮れる私たちを支えてくれる真実を求めて、私たちが自分の生活自体を深く洞察するようになるからです。

鎌倉時代は、日本にそのような現状打開に拍車をかけました。前にも述べた通り、仏教は様々な新しい精神性の道へと開花していきました。同時に仏教は、今までは出来なかった様式で、もっと大衆の手にたやすく届くようになりました。それまでの仏教は、世間から閉ざされていた貴族の占有物で、主に豪族か朝廷のためであったのです。

このような観点から、鎌倉仏教は、生き生きとした発展を遂げ、おそらく仏教の歴史上、最も人を鼓舞し、意義があった一つの出来事と見ることができます。 鎌倉仏教では、人々が銘々自分たちが長年親しんできた古くからの教えの中に意味を見出そうとしていたことが分かります。新しい型の仏教は、かって仏教を六世紀に朝廷の宗教として受け入れた国からの何ら補助を受けないで始まりました。新しく出てきたものは、あくまでも精神性の自由な表現でした。今日振り返って見ると、親鸞聖人および同時代の人々が決定した事柄、自分たちの命をかけた信仰、並びに此れまでの比叡山での快適な生活と自己満足を捨て、大衆の中で苦労し、難儀をする生活に飛び込んで行くように働いた心の中の力を理解するのは困難です。

法然、親鸞、および日蓮は弾圧を受け、首都から島流しの刑を蒙りましたが、一方道元は、自己に実質上の罰を与えました。歴史に向かって、鎌倉仏教の祖師たちは各々、当時の状勢に自分なりに対応していました。各々が自己の心境と理想に基づいた教えを発展させました。祖師らは、夫々、当時の仏教に不満でしたので、仏陀と同様に、自分達の快適な生活を捨て新しい生き方を探し求めるという個人的にはつらい苦難の道をとりました。主な祖師らが比叡山で天台僧として修行したために、今日でも天台宗は、鎌倉仏教の母であると称しているのは、興味ある点です。僧としての修行の傍ら、天台宗の精神的影響を吸収し、それにより自分達の到達した決断を強固なものにしました。しかし、天台宗が当時の政治と社会の悪と密着し過ぎて、真の精神的な導きとならず、人間として満たされないので、祖師らは、全て、そのような天台宗を教団としては受け入れないと感じました。

初期において、天台宗の教えは、仏教のすべての宗派を壮大に折衷総合されたかたちでまとめていましたので、主な仏教の伝統事項は、全部、比叡山で学べました。禅宗、浄土宗、真言宗(密教)および天台宗がありました。仏陀が生きとし生けるものを解放するためにもたらした色々な手段の一つとして、全ての教えに立派な意義があったのです。しかし、鎌倉仏教の師等は、このような折衷された仏教を打ち壊し、各自がそれぞれ自身にとって重要な唯一の真の悟りと思われた部分を選びました。

法然上人は、念仏に重点を置き、親鸞聖人は、この傾向を継ぎ、それにご自身の信心についての見解を加えました。一遍上人は浄土教の師でしたが、国内を巡回し、出会った人々皆に念仏の教えを施しました。道元は禅を選び、一方、日蓮は、天台宗を純粋な形で、法華経に一心に帰依することで復活させると主張しました。奈良の明恵(みょうえ)上人は、戒律と出家教団を復活しようとする保守的な意図を代表しました。

宗教で何時も出会う問題は、たとえ普遍の真実であっても、真実を探求していくと、人々はばらばらに分裂しがちです。一方、より実践的な宗教は、一般にもっと相対的で、他の教義に寛容な態度を採ります。天台宗を出て新宗派を建てた、鎌倉仏教の宗祖は皆、重要な共通する特徴をいくつか持っています。新しい宗派は、すべて人々の自由意志に基づいており、当時の伝統的な共同・氏族本位の宗教とは違って、信者は自分から決めて新宗派に加わりました。この新しい数々の宗派では、人々が一人一人解放される形をとりました。その際、平安時代の朝廷の仏教と違って、新宗派では、政治指導者に頼んでその教えを受け入れ、布教するのを支援してもらうよう働きかけませんでした。しかも、仏の道に従うことを第一とし、単に社会あるいは政治的問題を扱うのではなく、精神性に専念し、基礎的な問題点として仏教の真実に傾倒したのです。この方針は、是までの仏教の主な勤めは、災難を回避したり、天恵を獲得したりすることで日本(実際には、天皇)を守るという、当時の伝統的な仏教宗派の考えとは、鋭く異なっていました。以前には、病気を治したり雨を降らせたりすることが、国と貴族が仏教を支援した重要なわけでした。 とは言っても伝統的な教団に止まった真摯な求道者と学者が多数居たことを忘れてはなりません。

新鎌倉仏教は、全く単純にした、わかり易い教えで大衆に接しましたが、決して安易なものではなく、かつての出家宗派が使った学者的な教えと仏教語を止め、仏教の中心をなす教えを判りやすくし、仏の教えを世間のあらゆる階級の人に伝えようとしました。仏の教えを単純化しただけでなく、お勤めも単純にしましました。これらの教えは大部分、大衆のための宗教であって、大衆は生活のため懸命に働かなければなりませんでした。農夫、猟師、漁師、商人にとっては、従来の出家制度での複雑で骨の折れる修行の時間などありませんでした。法然上人は、念仏を唱えるだけでよいと主張しましたが、その一方で日蓮は、それ自身十分な勤めとして法華経典の題目を唱えることを教えました。道元が座禅(座って瞑想)を唯一の理想であるとしたのに対して、親鸞聖人は法然に従って念仏を唱えることを唯一のお勤めとしました。これらの師と教えの訴える内容は、いつどこでも通用する普遍的なものでした。救われると言う望みからは、誰も除外されることはありませんでした。偉大な人間愛および人間の福祉に対する関心がこれらのすべての運動の背後にありました。たとえどんな階級でも、どんなに裕福、貧困であっても、どんなに無知でも、弱者であっても、皆すべての人に仏の慈悲が届きました。

最後に、恐らくマイナス要因と見なされるかもしれませんが、新しい運動は、夫々

宗派別に分かれる傾向がありました。大乗仏教の概念が末法の概念と合さり、師はそれぞれ自分の教えこそが当時の仏教では唯一の教えであると唱えました。更に、他の形式の教えを尊重しても良いが、それらは真の悟りおよび最終的な救済に必要な保証をもたらすのに無効であると考えました。

 法然上人は武士の出で、教えは、より率直でより決定的な特徴を反映していますが、大げさでもなく、また、好戦的でもありません。急成長する運動の責任者として、上人は、より威厳を保たれ、外向性で敬虔な行動をとられました。そして、慈悲心を持った人として登場しました。平安時代の仏教では、貴族階級が優遇されましたが、それと対照的に、上人の教えることは、特に、人々の道徳的・社会的地位にかかわらず、すべての人達を確実に救うことを目標としました。また、上人の人となりについて、伝統的に、情に訴える面が伝えられてきましたが、法然上人は、数世紀に亘ってこの情の面を伝えてきた伝承とは裏腹に、芯の強さがありました。この強さによって、上人は、比叡山当局が加えた迫害に耐えることができ、またその強さ故、最後に上人が島流しされる結果になりました。ほかの諸点の中で、この強さが、特に親鸞聖人のような弟子を上人に引きつけたのです。

法然上人の浄土教は一見歴史を否定するように見えます。即ち、念仏を唱える功徳で、人は、この苦に満ちた不浄の世界(穢土)とは別な浄土に生まれるのです。平家物語で強調する浄土教は、特に幼少な安徳天皇の死と海底の浄土へ入水する物語の中に、この傾向が例証されています。法然上人の教えは、私たちが現在苦しんでいる、ひどい現実の代わりに、別の世界のビジョンを与えてくれます。世俗的な生活の厳しさは、来世への「ウパーヤ(方便、巧みな教育手段)」によって和らげられるのです。方便は、背負っている負担が最も重く、この負担がどんなものか、たやすく表現しない人たちへの慈悲の贈り物です。

親鸞聖人がどのような社会・階級の出であるかというと、藤原氏の血統を引いた人で、聖人の教えの趣旨から貴族出身であることが判ります。聖人は、他の教えと戦ったり、ひどく非難したりしませんでした。もっと正確に言えば、ご自分の和讃と自己告白の中で示されたように、親鸞聖人は感情が豊かな熱血にあふれるお方でした。しかも、内省的で、もっと内向性でご自分の心の世界を突き止められました。

自身の態度と感情を深く内省し、聖人は、運命の問題にたいする手掛かりあるいは解決策を見出すように努力されました。後に示しますが、聖人は、自分が完全ではないと言う気持ちに何年も苛まれ、世の衰退を心の中でご自身のものとして受け止められたようです。聖人は、自身の心の来歴を見つめられ、その結果自分が不完全な人間であると感じた気持ちを、阿弥陀仏を信ずることで、ご自分の意識の中で納得されたのです。自身の心中を巡礼された挙げ句に、親鸞聖人は新しい出発点に立ち、不安および歴史の束縛から解放され、聖人は、この世で建設的な、また意味のある生き方をされることができました。

その後、35歳位から、政治上の流人として日本の辺地に行き、親鸞聖人は、20年間通常の世俗的な生活を送りました。結婚後、家族を養い、大衆に混じって念仏を教えられ、修行されました。老齢に達してから京都へ引退され、そこで引き続き、教え、書き、そして生活され、後の信者のために世に残す学問的遺産および書き物を作成しました。

法然の教えが、大衆の手の届くところまで救いをもたらそうとした点に特徴があるとすれば、親鸞聖人の教えは、その救いをもたらすことが心の中で現実にどう出るかに関心をもっています。法然上人が、救いの現実すべてが歴史を超越するとしたのに対して、実存主義の親鸞聖人は、自身の煩悩と我欲の葛藤の最中でさえ、阿弥陀仏の慈悲が確実に約束されていることを体験されたことで、救いを自己の生活の中に見出そうとされています。

道元(鎌倉時代の曹洞禅の宗祖)は、相当な学問および哲学的な造詣を持った藤原家の一人だったようです。早くから両親を失ったことで、道元は、命の短いこととはかなさをひどく痛感された方です。このはかなさの意識から道元の教えの主なテーマが生まれ、毎日が私たちの最後の日であるかのように私たちは、実行するべきであると主張して、精神修行を緊急に行う必要性を強調しました。しかし、道元は、教義を深く追求し、親鸞聖人が内省的であったのとは違った意味で、主観的であり、内なる心に向けられていました。道元は、亦非常に厳格な人で、宗教に厳格さを求めました。中途半端なやりかたに満足せず、信者は仏教に全身全霊を尽くすことを主張しました。道元が中国で禅師の如浄から学んだ、基本とする言葉は、「身心脱落、脱落身心」でした。

禅宗では、空あるいは人の本性を直接理解することで歴史を超越せんと試みます。末法の教義が歴史上の衰退を若干認めたとしても、禅は、人々には、瞑想と洞察を通じて人々が本来持つ仏性を悟りうる可能性があると基本的に楽観しています。歴史を超越することでその束縛から解放されてこそ、人々は混乱した世の中に落ち着いて生きられるのです。

日蓮は、鎌倉仏教の祖師等の中で最後に現れ、当時最も新しい人であったのですが、師は、しがない漁師出身でした。それで、下層階級出身であることを誇りにし、何とかして、上流階級出の仏教徒に対して自分を見せつける必要がありました。従って、日蓮は、他のどの師より批判的でより好戦的で、考え方は、客観的で、字義通りで、経文に基盤を置きました。指導者たらんと熱烈に望んだ人でしたので、世の中に平和をもたらすために、仏教と世の中を統一する根拠を求めました。更に、愛国者で、当時の他の仏教徒より一般的な社会情勢について良く知っていました。

日蓮は、日本への蒙古襲来の危機を感じ、此の危機によって、国民に警告し、真の仏教国に変えようという使命感に打たれました。日蓮は、歴史と対決した代表者です。彼は、悪を心中で認識せよと要求したり、直接に超越せよとは主張していません。むしろ、日蓮は、「歴史と向かい合って、自分の判断を主張し、かつ、災難を避けるために真実に忠実に従うように。」と要請しています。使命感の為に、日蓮の信者に歴史の真実を見極めよと言っています。創価学会のような日蓮に基づいた今日の現代教団は、日蓮の闘争性および政治的・社会使命に関する感覚を持ち続けています。

鎌倉仏教のこれらの様々な伝統は、各々、私たちの現代とその問題に精神的な考え方を与える源点として有用ですが、親鸞聖人の見地、即ち、ご自身の中で歴史とどう取り組まれたか、宗教的生活を深く個人的に自身でどう理解されたかという点に焦点を絞ると、私たちの時代に役立つ見方が出てきます。聖人が教義を解釈し直し、生活様式を変え始められたことをよく知れば、親鸞の教えの特色が、ますますはっきり判ってきます。自己の意識の中で、歴史と遭遇し、取り組むことで現実の認識につながります。これは、自己の歴史的真実を認め、受け入れることを意味しますが、同時に、それがあくまでも私たちの本性と運命そのものではないと理解しなければなりません。歴史そのものが私たちの宿命ではないのです。その歴史の中でまだ生きている間でも、歴史(自意識としての)の束縛から解放されて、私たちは目的と決意を持って生活できます(自己認識)。

私たちが仏陀の慈悲に抱かれていると親鸞聖人が確信された以上、現代において、私たち人間は、歴史を超越し、またそれを包むなにものかの表れであると知って、歴史の中で行動し参加してもよいことが判ります。そのように自分で明確に認識すれば、自分自身が完全でないことからくる絶望感、或いは世の中で持つ自分達の期待はずれ感から守ってくれます。守るだけでなく、そのような認識は私たちの一生を通じて生きていくときに頼る基点であり、その基点から、歴史上、文化上、および個人的な束縛があっても、私たちは、なお自由であるという逆説についてもっともっとはっきりした、深い見方が得られるのです。