親蓮坊通信

・・・『親蓮坊通信』・・・ 2008/03/04

浄土真宗僧侶 名倉 幹

仏(ぶつ)のはたらき・・・父の命日から

今日3月4日は父の亡くなった日でありまして、もうかれこれ22年経ちました。 親鸞聖人の宗旨の家の生まれでもない私が、かように仏教なかんずく親鸞聖人の御教えに親しむようになり、果てはその宗門の僧侶として歩むようになりましたことは、返す返す不可思議なるご縁のしからしむることでありまして、ただただ強縁(ごうえん)としか言いようのない強いご縁の有難さをしみじみと感じておるのであります。 その一つの大きな機縁として、父の病気と死がありましたことは間違いありません。

父は53歳の働き盛りのときに突然、末期の食道癌であることがわかり、余命一年と診断されました。それは、それまで比較的に大きな不幸もなく、どちらかというと幸せな家庭といいえた我が家において、初めて「まさか」という大波が襲ったようなものでありました。 特に母のショックはとても大きく、精神的に落ち込んで悲観してしまいました。

父の闘病生活は、肉体的にも精神的にも苦痛に満ちておりましたが、医者の見立ての通り、癌とわかって一年で死んでいったのであります。

しかし、そのときの父の死は、暗さというよりも何か明るいものを感じさせました。といいますのは、父は死ぬ間際におきましても、少なくとも息子の私らに対して、愚痴めいたことを少しも言わずに、「自業自得や」と言うて、遺言も何も残さずに死んでいったのであります。 父は生前しばしば、「ケ セラ セラ」ということを語っていました。これはスペイン語で「なるようになるさ」という意味ですが、父は何か人生に対して一つの諦観のようなものを持っていたのかもしれません。

いずれにしましても、この父の闘病と最期は、私に大きなものを遺していってくれたのです。 それは、人間は因果の道理によって、病気になるときは病気になるのだ。死ぬときは死ぬのだ。われわれの思い、力が及ばないものに遭遇するものなのだということです。 そしてそのどうにもならない苦痛を乗り越える道を求めよと、父は何も語らずに、身をもって命を懸けて教えてくれたのです。

正にこの真っ只中のときにおきまして、私はある仏の教えを聞き抜かれていた篤信のお婆さんに出遇い、そしてそのお婆さんの人格から流れ出る、こう何といいますか、香ばしい精神的な匂いのようなものによりまして、私自身が仏の教えを聞きにいくようになっていったのであります。 本当に考えれば考えるほど、よく出遇わしてもろうたなーとその有ること難い有難さに、ただ頭が下がるのであります。 仏の教えに出遇い、それが深まっていくことは『難中之難無過斯(なんちゅうしなんむかし)』(正信偈・親鸞聖人作)といいまして、難中の難これに過ぎて難しいことはないと言われるほど、中々滅多になく難しいことであります。

そういう意味におきまして、父は明らかに、この私を人生の生死(しょうじ)の大問題に目覚ましめるために仏のはたらきを現じたのであり、そして今も諸仏として働きづめに働いておられるのです。それは何も、父が死んでどこかに霊魂として存在して、この私を見守っているというようなことではないのです。そういった霊魂思想が昔から日本中を覆っておりますが、それは仏教ではないのであります。 そうではなく、父を「仏」、つまり自ら真理に目覚め、他をして目覚ましめる「はたらき」として、こちらから観じていけるようになるのであります。

さらに言いますと、父のみならず、母も、兄弟も、友人も、知人も、知らん人も、他の動植物も、そして一切の順境、逆境、一切の出来事、現象は、この私をして、どうか宇宙の真理というものに目覚めて、様々な人生上のどうにもならん苦難を渡って行けるところの心の力の持ち主といいますか、それは間違いなく真実の幸せものになってくれよと、働きづめに働いておられる「仏」として観ぜられるようになることが、深き精神生活、宗教生活というものではなかろうかと思うのであります。

ある死刑囚の歌だと記憶しておるのですが、

『何もかも われ一人(いちにん)のためなりき 今日一日のいのち尊し』

という歌を思い出しました。

一切の出来事、存在はただ事ではなく、娑婆の真っ只中、つまり相対の世界、何もあてにならない世界に住んでおりながら、苦悩に苦悩を重ねておる我々をして、どうかどうか真実に目覚ましめ、仏の智慧を知らしめ、生老病死の苦難から出で離れることができるところのこころの境地を得せしめたい、得せしめずばおかないと誓われているのが仏様のお心、はたらきというものであります。

私が仏の教えに出遇い、仏の世界を知るようになり、心の救いの道に立たせていただきましたように、どうかどうかどなた様も、この無限なるはたらきの世界に出遇って欲しいと衷心から願い念ぜずにはおれません。

父はただの父ではなく、私をして仏のはたらきを現じてくれています。父のみならず、一切がそうです。そう観ぜられるようになりました事が有難いです。

本日、父の命日にあたり、拙文を書けましたことを大変有難く存じます。

合掌