第17章 — 第十七章 非暴力と平和

第17章 — 第十七章 非暴力と平和

 現代は、国境を超えたテロと自爆による暴力によってますます引き裂かれ、打ちのめされるようになりました。最もひどい事件は、2002年9月11日に起きたニューヨークの世界貿易センターおよびワシントンのペンタゴン と ペンシルヴァニアー州の 九三ビンの同時テロ爆破でした。自爆犯は、民間旅客機を乗っ取り、乗客全員を無惨な死に追いやりました。イスラエルのパレスチナ人による単独自爆犯等は、このように、自分達の信ずる目的のために喜んで死ぬ信念の人達には誰も手が出せないことを何度となく私達に実証しました。

 したがって、宗派を問わずすべての宗教信仰者の責務は、自分達の伝統の中で平和と非暴力の源を明確にし、信者にどんな暴力も空しいと説得し、苦情の元を未解決にして置かないで問題を解決しなさいと言う事です。しかし、平和と非暴力を求めることは、社会問題を外部から見るだけでなく、私たち自身の中にある暴力の源を見ることを意味します。わたしたち自身の心にあるものが大きくなって、社会に偏見、憎悪および暴力の形で現われるのです。暴徒に加わり、戦争に出かけるのは結局個人です。

    人が他の人達と共通の人間性に気が付き、[土地等が]奪われた人達が困っていれば是正の道を求めるようになれば、暴力の根が切り取られることになるでしょう。

  親鸞聖人は、私たちの人間性について現実的な目で理解され、仏教と宗教について解釈し直され、それによって憎悪と暴力の毒を消す手掛かりを下さいました。聖人は、往々宗教信仰とみ教えが醸し出す、私たちが根深くもっている自己中心主義と独りよがりの元を白日の下にさらけ出し、断ち切られました。

  親鸞聖人のみ教えは、京都の郊外比叡山上の天台僧院に出家僧として二十年間の厳しい修行後に、個人として絶望と不安を味合われたご自分の宗教体験に基づいています。聖人は、伝統的に行われてきたように自己努力で修行して悟りに達成することは、自我がまだ活発中であるので不可能だという結論に達されました。そのような行の結果は独りよがりで高慢になるだけで、これはすべての偉大な宗教では大罪になっています。ですから、聖人は、すべての衆生のために修行された菩薩の清らかなお姿とご自分を比べられ、ご自身の状態を情けないと悲しまれました。:

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくこと を快しまざることを、恥づべし傷むべし。       (http://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/database.htm 『浄土真宗聖典』聖教データベース、   顕浄土真実教行証  顕浄土真実信文類 三)

現代語訳:なんと悲しいことであろうか。この愚禿親鸞は果てもない愛欲の海に沈み、名声       と利得の高山に踏み迷いながら、浄土に生まれる人のなかに数えられることを喜ぼうともせず、    仏のさとりに近づくことをうれしくおもわないことを、本当に、恥じなくてはならない。心を            いためなくてはならない。)(「日本の名著6、親鸞聖人」、教行信証、信巻、石田瑞麿編・訳281頁 中央公論社 昭和58年6月15日8版)]

  親鸞聖人にとって、念仏のような宗教的行は、心の中にもつ二つの意識と信心の動きによって起きなければならないのです。伝統的にこれは「深心(じんしん)である。これにも二種類ある。」と名付けられました(「日本の名著6、親鸞聖人」、教行信証、信巻、石田瑞麿編・訳243頁 中央公論社 昭和58年6月15日8版)。一つには、私たちの宗教的修行にさえ侵し蔓延する利己主義を現実に意識しなければなりません。二つには、私たちの無用な自我主張が阿弥陀仏の普遍的なお慈悲に包まれると悟った時に、生き生きとした喜びを意識することです。親鸞聖人はこう言われています:

      慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す

[顕浄土方便化身土文類 六。CWS. P. 291, #118.]

         現代語訳

なんと喜ばしいことであろう。今わたしは心を広大な本願の大地にうちたて、思いを不思議な真実の海にまかせている。「日本の名著6、親鸞聖人」、教行信証、化身土巻、石田瑞麿編・訳 436頁 中央公論社 昭和58年6月15日8版)]

 目覚めた宗教意識の中で起こる弁証法的(前提に基づく)結論は、私たちが外面に出た個人的並びに社会的に起こされた意識的な表向きの人格を否定すると、もっと私たちの真実の自己に就いて、もっと広く深い背景および意味が出てくるということです。ですから、親鸞聖人は以下のように説かれています:

金剛心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなはちこれ大菩提心なり。     この心すなはちこれ大慈悲心なり (顕浄土真実信文類 三)

現代語訳

金剛石のように堅い心は、すなわち仏になりたいと願う心である。仏になりたいと願う心は、すなわち世の人を救う心である。世の人を救う心は、すなわち世の人を救い取って安楽浄土に生まれさせる心であり、この心はすなわち大菩提心であり、この心はすなわち大慈悲心で     ある。(「日本の名著6、親鸞聖人」、教行信証、信巻、石田瑞麿編・訳 271頁 中央公論社       昭和58年6月15日8版)]

親鸞聖人は、阿弥陀仏を私たちの命を抱き、すくい取られる真理を表すシンボルとされまししたが、このシンボルこそ、利己的で飽くなく追求し行動している私たちにもかかわらずその命を維持し支えて下さる宇宙の、もちつもたれつの縁起(相互依存)の過程を表わしています。仏教では、これは条件をつけない、限りない慈悲と呼ばれています。

親鸞聖人によれば、信仰・信心を体験する過程には、私たちが自分の利己主義である真実と自己否定から出た前向きな自我肯定の相対する考えとあくまで個人的な人生を変えるような出逢いに到達した原因や条件について認識することが含まれています。この過程は、阿弥陀仏の真心が示されたのか或いは私たちの心中に真実の自我として現れたものとして解釈されます。親鸞聖人は次のように説かれています:

如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来 の至心をもつて、諸有の一切煩 悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他       の真心を彰す。[顕浄土真実信文類三]

      現代語訳

        如来は清らかな真の心をもって、完全に一つにとけ合った、なにものにもさまたげられない、思惟を超えた、口にも文字にもあらわせない、至上の功徳を成就され、それを如来の真心から、煩悩と悪行と邪な知恵にまみれたすべての世界の人たちに回らし、施されたのである。      すなわちこのことは、世の人を救おうという利他の真心をあらわしている。「日本の名著6、親鸞聖人」、教行信証、信巻、石田瑞麿編・訳 253頁 中央公論社 昭和58年6月15日8          版)]

 したがって、自己を認識することに深い宗教の基本があり、それによって宗教の意味がもう一度考え直され、本人にとって日常生活の重要さが明らかになります。ご自分の人生で宗教の主観性には両極端があるという対立論を見出された為、親鸞聖人は、念仏を唱えることは行でも、善行でもないと説かれました。(「念仏は行者のために非行・非善なり。」[現代語訳、念仏は、これを唱える行者のためには、善でもなく行でもないのであります。[梅原猛校注・現代語訳 歎異抄 第八章 講談社昭和五二年第11刷発行)]  念仏は悟りに到達することを目指した行でもなく、心を清めたり未来、つまりあの世の功徳を積むための道徳的な善行でもありません。というのは、これらすべては自我と自分のしあわせに焦点を当てているからです。

 聖人が念仏を一つの行として見られたときのお考えは、清らかでありたい、自己の完成あるいは自己の実現を達成したいと目指した、自分で努力し自分の為にする宗教の行すべてに当てはまると言えるでしょう。聖人の見方では、このような行は自分の欲が引き金になって自我を主張するものなのです。聖人の体験では、このような努力は自滅し、結局は不可能であると考えられました。これは、丁度自分の靴のつまみ革を引っ張っても「自力で」立ち上がれないのと同じです。

 親鸞聖人のこの体験と教えを踏まえて宗教信仰がどのように平和に寄与するかを考慮しなければなりません。親鸞聖人にとって、平和に役立つのは行ではなく、これらの行の目的を達成しようとする心の中の動機とその目的の理解です。行は、すべての人間の行動の原点と背景である実体というより大きな観点から見ないと、自分を他と相対的に比較することによって、独りよがりになり、精神的な競争をしてしまうことがあります。例えば、自分達が他人に比べて行をより長く、より頻繁に、あるいはより正確に行っていると自慢することがあります。

 行が持つ相対的な性格を超越するために親鸞聖人が説かれたことは、行はある目的を達成するための手段ではなく、既に体験した(仏の)真実を表わすということでした。聖人は信者に絶えず、行は意識して、慎重に考えた意図や、計算(「はからい」)ずくで実行するものではないことを私たちに教えられています。

 聖人は、当然人間は意識して行動を起こす決定をしていることを承知されていますが、ここで人間の意志と行動の実際的な面を否定されているのではありません。むしろ、人自身とその行動を、仏の限りない慈悲という観点から見られており、ここで慈悲はわたしたちの行動を通して現れ、善行の真の元を示しているのです。私たちは良い行いをしたからといってそれを手柄だと認めることは出来ないのです。私たちのいわゆる「善行」から自己満足やうぬぼれの源を根こそぎ取り除くことが親鸞聖人の意図でした。

  生活をしていく中で、私たちが本音として煩悩に悩まされ、自分では救えないことが分かると、行は感謝、献身、率直および分け合う共有の気持ちを表わすことになります。私たちの自我意識の転換が起こると、私たちの行動も転換され。限りない仏の慈悲が私たち同胞に伝わっていく橋渡しをするようになります。

 親鸞聖人の念仏/信心を通して、私たちは、通常の人智およびサンガ(教団と信徒の集団)内とサンガ間の人々の争いを招く愚行を超えた認識に到達します。念仏を通して、私たちは、仏陀の慈悲に等しく抱かれているすべての衆生とのつながりとともに一体感を感じます。「涅槃経」を引用されて、親鸞聖人は以下のように記されています:

善男子、大慈大悲を名づけて仏性とす。なにをもつてのゆゑに、大慈大悲はつねに菩薩に随ふこと、影の形に随ふがごとし。一切衆生、つひにさだめてまさに大慈大悲を得べし。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大慈大悲は名づけて仏性とす。仏性は

名づけて如来とす。

仏性は一子地と名づく。なにをもつてのゆゑに、一子地の因縁をもつてのゆゑに、菩薩はす なはち一切衆生において平等心を得たり。一切衆生は、つひにさだめてまさに一子地を得べきがゆゑに、このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。」と。[ 顕浄土真実信文類 三]

         現代語訳

        きみたち。楽を与え、苦を除く広大な慈悲の心(大慈大悲)を仏性と名づける。なぜなら、この心は、影の形にそうように、いつも菩薩につき従っているからである。すべての人はいつかはついにこの心をかならずうるはずである。だから、「すべての人には一人のこらず仏性      がある(一切衆生悉有仏性)ととかれたものである。したがって、この二つの慈悲の心を仏 性と名づけ、仏性はまた如来と名づけられる。

仏性は、すべての人をたった一人の子をあいするようにあわれむ境界(一子地)と名づけられる。なぜなら、この境界にいたることによって、菩薩はそのときすべての人に対して平等の心をえたからである。そして、すべての人はいつかはついに、この平等の境界をきっとうるはずであるから…」   「日本の名著6、親鸞聖人」、[行信証、信巻、石田瑞麿編・訳257頁 中央公論社 昭和58年6月15日8版)]

 私たちは、念仏が持つこの奥に潜んだ精神的意味に動かされますので、同時に私達の煩悩に悩まされた人間性につきものの人を欺く口実や自分達の出来る行動には限りがることなどを痛いほど認識しつつ、平和と人類の福祉のために励みます。それで、私たちはどんな良いことをしても、手柄顔はできません。親鸞聖人は私たちの利己的にかられた行動から良いことが起こることがあるのをすっかりご承知でしたが、それだからといって私たちの利己主義を受け入れることにはなりません。聖人は、自己の努力には限りがあることをはっきりと指摘されています:

 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏していそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するを   いふべきなり。今生に、いかにいとをし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば念仏まふすのみぞ、すえとをりたる大慈悲心にてさふらうべきと云々。「歎異抄」第四条

現代語訳

仏教には聖道門と浄土門の違いがありますが、仏教の根本である慈悲についても、聖道門と浄土門には違いがあります。聖道門の慈悲といいますのは、われわれが他の生きとし生けるものをかわいがり、その生けるものをいとおしく思い、それを育てようとする慈悲であります。しかし、われら無力な人間の世界にありましては、われらの思うがままに徹頭徹尾他の生けるも      のをたすけることはきわめて困難なことであります。

逆に浄土門の慈悲といいますのは、念仏をして早く仏さまになって、仏の持っている大きなる愛の心、大いなるあわれみの心でもって、思うように生きとし生けるものを救いとり、生きとし生けるものに利益を与えることをいうのでありましょう。

  世の中でわれらがどんなに他の生けるものをいとおしい、かわいそうだと思っても、われわれの思いどおり、いとおしいものを救うことができませんので、そういう慈悲は結局首尾一貫、しない慈悲であります。だから、この世のことは業にまかせて、ひたすら念仏するのが、首尾一貫した大きな慈悲でありましょう。(梅原猛校注・現代語訳 歎異抄 講談社昭和五二年第11刷発行)

 この一節は、わたしたちは世の中で何もしなくて良いと言っているのではなく、人間の行動には限りがあることを現実に理解する助けになります。私たちは結果を期待してするのではなく、希望を抱いて励むのです。

 浄土真宗の「行」は信心を表われとして、自省しつつ念仏を称えるのです。自省は、私たちの生活を豊かにしてくれた人々すべてに私たちが感謝しているという意識から起こります。わたしたちや他の人たちが唱える名号を通して、阿弥陀仏、つまり無量寿仏・無量光仏、限りない慈悲と知恵の仏陀が私たちを呼ばれる声を聞きます。その声は、目前の利己的な利益を越えて私たちのスピリチュアルな思いを高め、慈悲、人間社会での公正、および自然の命へ向けた心を広く持つようにしなさいと響きます。

 親鸞聖人は、ご自分の信仰が原因で島流しの刑を受けられ、世間の法が平等でないことに気付かれました。

親鸞聖人の和讃「皇太子聖徳奉讃」(No.75)は、

聖徳太子の言葉を引用されて歌われています。

「とめるものゝうたへは 石を水にいるゝがごとくなり   ともしきものゝあらそひは 水を石にいるゝににたりけり。」(親鸞和讃集、岩波文庫、名畑応順校注、1976年4月16日 第一刷 p.238)。

つまり、「金持ちが訴えると、これは水に石を投げ入れるよう(応答がある)ですが、貧乏人が訴えると石に水を投げるようなもので、なにもおりません。」と。当時も現在と同様に階級や貧富の程度によって裁判が公正に行われたり、行われなかったりしたのです。

 親鸞聖人にとって、念仏は単に口に出して唱える六字の組み合わせではありません。私たちの全生涯が念仏なのです、つまり、念仏は、私たち自身が、縁起(相互依存)と慈悲の現れであるという意識を持って生きてきた生活であって、仏の実存性を自分達が味わったように、他の人達に伝えるよう力を尽くすという生活です。

 広い意味では、浄土真宗の行を実践することが生活の実践であると言ってもよいでしょう。この行は、私たちが日常遭遇するままの生活に基づいた、自然な道です。念仏の生活を生きることは、念仏を私たちのこころの奥底で聞き、精神の耳で受け止め、心から唱え、私たちの最も奥深い心中に向かって内省し、深い感謝の意を表わすことです。

   はどこえでも持ち運び出来、仏にお参り出来る精神のやしろです。時と所に縛られずお勤めできる行です。もっと正確には、念仏のおかげで、私たちの精神の深い奥底から阿弥陀仏の呼び声が聞こえ、命自体の本元に注意を向けさせて頂くのです。

    恐らく、ある程度トマス・ア・ケンピスの神の存在を信ずる行と比べる事がができましょうが、親鸞聖人と信徒は、ある特定の実存する存在に注目するのではなくて、生きていく行い自体に満ち満ちている限りない慈悲をわたしたちに説く全生活の中味に注目するのです。

  親鸞聖人の精神が私たちの宗教を理解する心に浸透する時には、どんな霊性の育成方法を用いて自分の宗教意識を促進し、伸ばしてもよいのです。西欧では、禅、小乗仏教およびチベット仏教伝統の影響によって、瞑想の行が心の安らぎと落ち着きを得る手段としてよく知られるようになりました。

  浄土真宗の観点からは、瞑想によって私たちの生活で慈悲の意識に心を定め、集中させてもよいのです。同様に、名号を唱え、且つ熟考すれば、私たちの精神生活の源と意味がはっきりするでしょう。

  人によっては、お経を数節読んだり唱えたりすると、お経の文言が持つ理想が自分の意識に浸透するにつれて、信仰心が生き生きとなり、参加意欲が強まりまります。親鸞聖人は、名号を自発的に唱える以外の行を求めたり指定されませんでしたが、自分の心に適切な動機が生じていれば、信心を強化するような、どんな行を行ってもよいでしょう。

  親鸞聖人が宗教の行に独特な方針で向かわれたにもかかわらず、他の宗教の道を非難されなかったことは注目に値します。聖人の教えはご自分のご体験から出たものなのです。人々から問いただされると、聖人はご自身の立場を述べられ、決めるのはあなた方めいめいですと言われるのが常でした。戒律に対して他の教えとは異なった方針をとられましたが、聖人は独善的でも好戦的でもありませんでした。このような独善的な態度は、すべての衆生は究極において自分らの生涯で限りない慈悲の真実に気づくであろうと聖人が理解されていたこととは矛盾する筈です。親鸞聖人は他の人達に指図はしませんでしたが、単にご自分の人生で真実だったことを説いたのです。

 しかし、歴史的な観点内で、親鸞聖人は、ご自分の教えとその意味するところを他の仏教宗派並びに、広い意味で同時にすべての宗教とも区別されました。現代のように多岐に亘る状況と各種の感性の時代では、自己と宗教の問題に気を使い、み教がより広い宗教の世界に広く通用するように考慮することが必要です。ここで、宗教を利己の隠れ蓑として、特に教団の形で他の人達をおどしたり完全に支配しようとして宗教をゆがめている場合に就いて、親鸞聖人は深く洞察されています。このようなゆがめられた宗教問題のために、宗教は人類の問題の解決ではなく、むしろ問題の一部となっていたことが非常に多かったのです。親鸞聖人と信徒は、我欲に注意を払い掘り下げて考える限り、宗教はどんな行であっても平和の道具になれると説くのです。この認識を踏まえて、親鸞聖人の見方は宗教上の仰々しさと主張に対する健全な是正手段になります。

 迫害に直面され、弟子達に助言された時、親鸞聖人は平和について気遣われ、念仏は自分達のためだけに唱えるのではないと次のように説かれました。

「念仏申さんひとびとは、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために念仏を申しあはせたまひ候はば…。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。親鸞聖人御消息集」

現代語訳  念仏しようとする人々はご自分の浄土に生まれるためをお思いになることはなくても、天皇のおんため、国民のためにおたがいに念仏を申しあわせられるなら、(結構なことでありましょう。)かならず浄土にうまれることができると確信する人は、仏のご恩を思われるにつけても、ご報恩のために、お念仏を心にいれて称え、世の中の穏やかであるよう、仏のみ教えのひろまるように、とお考えにならなくてはならないと思われます。(「日本の名著6、親鸞」親鸞聖人御消息集、石田瑞麿編・訳 133頁 中央公論社 昭和58年6月15日8版)。

 私の考えでは、親鸞聖人が、すべての問題は心から発生するとした聖書、平和を祈り、平和は先ずわたし自身から始まるとした聖フランシス、天下の泰平はこの私個人が身を修める事から始まり、社会、天下に広がり、自分に戻ってくると教えた中国儒教の「大学」に同意されたであろうと思います。平和の基礎は究極のところ、各人の心にあるのです。したがって、平和のための精神的修行は、自分自身に取り組み、より大きな仏の実存に私たちが繋がっていることと他の人達への私たちの責任を知ることなのです。