第18章 — 第十八章 多様な文化・宗教の世界と浄土真宗

第18章 — 第十八章 多様な文化・宗教の世界と浄土真宗

現在、私たちが文化、社会、政治、宗教が種々異なる世界に住んでいることは言うまでもありません。世界中に行き渡ったコミュニケーション技術のお陰で、私たちには毎日、ありとあらゆる生活状態の民族の間で多様な生活が営まれている様子が報道されています。一方、これまでの伝統宗教が比較的に離ればなれであった共同社会から生まれ、信者が自分達こそ唯一、真実の宗教を持つと信じ込まされてきましたので、このように多様な人間の生活環境は、この伝統に大きな問題をなげかけています。   今日、これまで以上に必要なことは、世界中のさまざまな人間社会が互いに理解し合い、各伝統宗教がその長い進化の過程で人類の福祉に貢献したことを高く評価することです。 私たちは、人間社会全体の福祉に向けて、お互いが分け合う価値観と参加意欲をもって緒に努力する方法を見出さなければなりません。これを実行しなければならないのは、相互を破壊するような戦争と暴力、相変わらず続く環境汚染、およびすべての民族が必要とす資源の枯渇を避けるためです。現代生活を脅かす諸問題と脅威をすべての人が感じています。私たちが今日住む世界を飲み込み、人間性をも奪うような勢力と戦うには、真摯な考えと強い決意が不可欠です。人命の意味と価値に係わるこの問題に向かって、宗教の信仰はすべて、個人としても集団的にも取り組まなければなりません。 お互いの間のコミュニケーションと人の移動が盛んなこの時代に、私たちは、これらの重大な問題について、非伝統的な代わりの考えを無視したり、疎かにしたりすることはできません。現代生活で浄土真宗のもつ潜在力を充分に評価し理解しようとするなら、私たちは、今世界中で行き渡っている人々の生活観、つまりお互いに競争しても尚助け合える生活の観点を頭にいれて考えなければなりません。 現代文化の世界に浄土真宗が参加しようと努力する際に、私たちは、宗教は皆どうせ似たり寄ったりだからと、無関心に陥ってはなりません。

これでは、信仰の体験で暗黙のうちに起こる、必須の真実の問題を避けることになります。また、私たちだけがただ一つの真実を持っていると主張して、現代の情勢から退いて独りよがりの自己満足の中に引っ込むことはできません。もしも私たちの信仰が重大、且つ適切であり、共同社会で意義のある参加をすべきものならば、私たちはすべての伝統社会の人類が持つ最も広い知恵を募り、それを同時に私たちの浄土真宗の教えから得た信仰体験と一体化しなければなりません。

 他の宗教伝統と交流することは、浄土真宗の意味と重要性をより明確にするのに役立つでしょう。中には、浄土真宗とキリスト教が一見似ているようなので不安を感じる人もいるかもしれませんが、そのような類似点があるために、お互いに信仰が異なっていても固有な一般的共通点があることを理解することで、両方の伝統をより強く確信することができます。

 私たちは他の宗教の見方と交流することで、これらの宗教の伝統を吟味し、それにより貢献できるようになります。親鸞聖人が人間性を現実的に理解されていた見方、宗教の批判、および慈悲の全宇宙的なビジョンは、聖人の権威を振り回されない宗教の態度と共に、私たちが他の宗教伝統の方々と分かち合える重要な特徴です。

 とりわけ、私たちは、浄土真宗が広く普遍的な人間の体験に根ざしていて、「世界宗教」であることを認識し理解しなければなりません。真宗の信徒が主に日本人や日系アメリカ人であっても、最早日本人だけの宗教ではないのです。偶々歴史上そうなっただけで、み教えの意味や布教運動の使命がうやむやにすべきではありません。真宗は、数百年間に亘ってよく知られた日本の宗教環境と密接に結ばれて来ましたが、今や、あらゆる異なった生い立ちの現代人に、有意味な別の信仰として、浄土真宗の独特の特徴を示せる新たな機会が訪れました。

 浄土真宗は、個人的、社会、知的、文化的、ならびに環境上に現代人が抱く関心事に取り組まなければなりません。また、真宗の普遍的な見方を強調し、個人としての価値を高め、共同社会を築く実践的な代案を提示しなければなりません。 真宗は、私たちの内面の精神生活を築き、絶望の外に表れた表面的状態を乗り越えさせてくれ生活を理解するよう、推し進めなければなりません。真宗は、社会の中で宗教に参加することを隠したり、他から遊離したりすることに対抗すべきです。阿弥陀仏には広い普遍性があるので、他の宗教にも通ずることができます。というのは、真宗はすべてのシンボルに基づく体系を乗り越える見方をし、民族、国、文化の違いによる限度を超えているため諸文化とも共通し、個人差の問題を超えているためどの人々にも共通しているからです。

 現代のように宗教が多くの信仰・文化を擁する事情の下では、強い信仰を持つことはこれらの様々な信仰をもつ人々と交流するために先ず必要な条件です。強い決意で参加することは人間の生活上必須です。私たちがすべてある種の価値や関係を極度に重要なものとして大切にするのは、これらのものが私たちの生活の真実と意味を表わしているからです。これらのことへの参加は個人的、宗教的、政治的、および、社会的な意味があります。

 強い信念をもつことは、異なった宗教間の対話および異なった宗派間の関係を維持するのに障害になると思う人が多いようですが、無関心も妨げになります。大切な事は、強い信念があればこそ、このような対話や相互の理解がなおさら必要であると理解することです。強い信念と個性は宗教紛争を招く派閥主義や孤立心と同一視できません。この場合派閥主義は否定的な態度で、自分以外の他の信仰はすべて間違いであり、価値がないものとしてを拒絶し、はねつけることです。この場合、ふつうは、他の宗教についてその欠点を自分達の長所と比べて、非難するか無視するかのいずれかに終わってしまいます。派閥主義の下では、他のものは常に間違っています。

 強い信念をもつことは他者を否定しなければならないということではないのです。この信念は個人の体験から出たものですが、自分の体験と視界には限界や限度があることを常に気づいています。親鸞聖人が利己主義を現実的な目で理解されていたことと他人の見解に寛大であったことは、この信念に関する原則が正しいことを示すよい一例です。

 従って、宗派間に関係をもつことは、必ずしも人の信仰心を弱めたり、それを押さえつけなければならないという恐れはないはずです。 現代の対話で一般に受けいられていることは、私たちは自分の信念を守り、同時にやはり同じく強い信念を持っている別の宗派・宗教の実存を認め、支持しなければなりません。

 当時の状況の下で、親鸞聖人は様々な宗教の選択肢を吟味されなければなりませんでした。聖人は浄土教内の伝統という立場に立たれました。さらに、聖人は、宗教体験により宗教についての感受性を高められ、浄土教の別の教え並びに他の宗教の見解に対する批判の根拠も説かれました。祖師法然上人から「浄土教の真実の教え」(浄土真宗)を継がれた聖人は、ご自分がすべての衆生のスピリチュアルな解放にとって絶対に不可欠な真実を受け取られたと信じておられました。

 聖人が浄土教に強い宗教的信念もっておられたことは明らかで、他の鎌倉仏教の祖師達もそれぞれの伝統の中で同様な信念を持っていました。それにもかかわらず、聖人は他の人達を非難したり嘲るようなことは決してありませんでした。単に聖人と意見がに合わなかったというだけの理由で、聖人はそような人達を地獄に堕ちるぞとののしるようなことはありませんでした。 親鸞聖人が地獄行きがふさわしいとお考えになったただ一人の人は、煩悩に悩まされて、到底悟りを開くのに必要な行も出来ない聖人自身でした。「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし、」(現代語訳「知恵も徳行もなく、[中略]永遠に地獄にいるより仕方がない身なのであります。」(梅原猛校注・現代語訳 歎異抄 第二条 講談社昭和五二年第11刷発行)

親鸞聖人は、絶えず信者に、すべての神と仏のおかげで皆が本願に出逢えるようになったことに気づき、感謝するようにと勧めました。さらに、信者に不敬な行いでこの(念仏の)運動を傷つけるようなことはしないように諭しました。「まづよろづの仏・菩薩をかろしめまゐらせ、よろづの神祇・冥道をあなづりすてたてまつると申すこと、この事ゆめゆめなきことなり。」(親鸞聖人御消息集、現代語訳、「まず一切の仏・菩薩をかろんじてたてまつり、一切の天地の神々や冥界の神々をあなどりたてまつるというような、このようなことは、念仏の人にはけっしてないことであります。」親鸞聖人御消息集(「日本の名著6、親鸞」 親鸞聖人御消息集、石田瑞麿編・訳 136頁 中央公論社 昭和58年6月15日8版)。

ですから、私たちは親鸞聖人のみ教えの進め方に二つの面があることが分かります。一つには、他の宗派とは違う聖人のみ教えの際だった特徴をはっきりと説かれました。「聖道の八万四千の善行」を不可思議な仏法である阿弥陀仏の浄土の教えと区別されました。「不思議の法は聖道八万四千の諸善なり。不思議といふは浄土の教は不可思議の教法なり。」(現代語訳、「思議の教えは聖道の八万四千のさまざまの善であり、不思議というのは浄土の教えが人間の思惟を超えた教えだからであります。」親鸞聖人御消息集(「日本の名著6、親鸞」 親鸞聖人御消息集、石田瑞麿編・訳 113頁 中央公論社 昭和58年6月15日8版)。

二つには、信徒達に真宗以外の教えに穏やかに接し、尊重するようにと説いています。聖人は、堅い信念をお持ちで、それによりご自分の生活が霊感を受けていましたが、ご自身の至らない点を良く分かっておられました。教義上独断的でなく、決して他の人達に、何をすればよいかを本人が知っているより聖人のほうがよく承知しているなどと主張されたことはありませんでした。質問をしてきた人達とお話した後で、聖人は「決めるのはあなた方です」と言われました。(「面々の御はからひなり」歎異抄第二条)。

 大乗仏教では、真実を求める方法として、教相判釈(きょうそうはんじゃく、教判)という仏の経典を根本的に分類する形を採り、自分の教えが他より優れていることを実証する目的で種々の教えを区別する論法になりました。仏教では一般に真実の教え、邪悪な教え、および異教の(非仏教)教えの区別がありました。真実の教えとは、仏陀が説いた正しい仏法を意味します。邪悪な、偽りの教えは、真実に関して人々を混乱させる、異端に偏った仏教の教えを指します。異教の教えは、ヒンズー教、儒教および道教のような仏教の伝統以外の別の教えです。後世に仏教が直面することになった神道およびキリスト教を含むとしてよいかもしれません。

 親鸞聖人は天台宗教学で勉び、その伝統の用語を使用され、教えを真実の教え、暫定的な教え、および偽りの教えと分けて呼ばれました。親鸞聖人のお考えでは、自分の働きによる努力を用いる教えの様式はすべて暫定的な方便(upayaウパーヤ)、つまり、親鸞聖人が三願転入の過程で説かれたように、人を「本願」に目覚めさせようと仏が意図された慈悲の手段による教えです。

 親鸞聖人がご自身の教本作成では浄土教の言葉を用いられましたが、絶対的な「他力」についてのお考えを強調されるように言葉を定義されました。この定義は二双四重(二組と四段階)として知られています。(親鸞聖人の教判(み教えの根本的な分類)は四つの考え方、出・超・竪・横に基づいており、すべての伝統の精神性発展の面を表わしています。最初の「出」は迂回または段階的に(輪廻、生死流転から)出る行。「超」は超越概念、または直接一足飛びの成就で、一歩一歩進む行の逆。「竪(じゅ)」は縦であり、困難な聖道による自力の努力の行。「横」は水平または横向きで、突然という感覚であり、他力と本願を表わす行。参照文献:教行信証、信巻(「菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり. . .」現代語訳「日本の名著6、親鸞」教行信証、信巻  石田瑞麿編・訳 265頁 中央公論社 昭和58年6月15日8版);愚禿鈔、(一には頓教(とんぎょう)、二には漸教(ぜんぎょう)なり。)この体系に依って、聖人は、すべての仏教の教えを本願との関係と言う尺度で評価されました。この四つの分類語を組み合わせると異なった精神性の態度と行を、最低から最高、つまり究極の真理に達する四つの層を象徴的に表わしています。

 これら種々の階層は、それぞれ悟りと菩提に導く主な仏教伝統と行を示しています。親鸞聖人によれば「(じゅしゅつ)」の第一段階はテーラワーダ(上座部)仏教(親鸞聖人は小乗、つまりヒーナヤーナと呼ばれました)、法相(ヨーガーチャ-ラ、瑜伽行派または唯識)、および 三論の諸宗、学派を表わしています。これらの宗派の教えは、悟りの目標に到達するのに非常に長い時間が必要です。それらは自身で努力する方法に重きを置く暫定的方便の教えです。このやり方は自力で流れを泳いで渡ることに例えてもよいでしょう。

 第二段階の「竪超(じゅちょう)」では、華厳、天台、真言宗および禅の道がこの分類に入る竪(たて)の超越です。これらの教えは自身で努力することに依存しますが、真の大乗仏教として、直接的即時の達成に向けた方法を与えます。これらは、走って棒高跳びで流れを横切る人に例えられます。第三段階の「横出(おうしゅつ)」は自身で努力する浄土教であって名号を絶え間なく称える功徳と善行を説く行です。観経(仏説観無量寿経)と小経(仏説阿弥陀経)がこの段階の面を代表しています。(念仏で名号を称えることは、一部他力であることを理解すべきです。そのわけは、阿弥陀仏がご自分の名号に仏の徳を化身とされたからです。従って、これがこの段階での行で念仏が効験があるとする根拠です。)これらは暫定的方便の浄土教です。この点は、(溺れそうになって)自分に投げられた救命具を掴む人に例えることができます。

 「横超(おうちょう)」は親鸞聖人にとって最高の分類であって、「大経(仏説無量寿経)」が説く本願の絶対的な他力を意味します。つまり、信心の成就です。これは力尽きて溺れかけている人を流れから引き上げる時に見られることと同じでしょう。 親鸞聖人のなされた教判(根本的な分類体系)は、仏教および他の宗教において独特な見方を反映しています。同様の取り上げ方がキリスト教の旧約と新約聖書という区別にもあることが分かります。聖パウロは新約聖書において律法と実行ならびに信仰に基づく福音を区別しました。

 親鸞聖人は、単に、天台宗教判(根本的な教義分類)の独特な点に影響を受けただけではなく、その一体化し統合する面をも活用されました。聖人は「顕彰隠密(けんしょうおんみつ)」または「隠顕(おんけん)」と言う説を立てられました。「顕」も「彰」も明示する、示す、表わすという意味があります。(「日本の名著6、親鸞」 教行信証 (化身土巻)、石田瑞麿編・訳 366ー368頁、378頁 中央公論社 昭和58年6月15日8版)「隠」の意味は秘密、隠されていること、密は秘密を意味します。この区別は、真言宗および天台宗の密教(奥義の(秘密)教え)と顕教(顕著、あるいは、明らかに説かれた教え)に関係があります。

 しかし、親鸞聖人は、これらの区別は浄土教の基になる浄土三部経に代表されている種々の宗教的傾向および方式を関連づけるために使用されたとお考えでした。従って、明らかな、表面的な見方ではこれら三つの経典は、それぞれ第十九願(観経)、第二十願(小経)、および第二十願(大経)の宗教的様式に該当しています。第十九願は道徳、美徳、および瞑想の道であり、第二十願は自力念仏の道です。第十八願は本願に信心を抱く道です。これは絶対的な他力の道です。

 信心を通して第十八願のより深い意味としてとらえられる隠れたレベルでは、これらの一見異種の教えはすべて、本願を通じて生きとし生けるものをすべて救おうとされる阿弥陀仏の根本の目的の表現として一体になります。教えがすべて異なっていると(互いに関して)同時に、同じ(本願に関して)です。親鸞聖人はこの教義を適用するのに、この三部経に焦点を当てて説明されておられますが、この原理は他派の仏教、および、おそらく他の宗教の表現形式へも広く適用できることが明白です。

 親鸞聖人の書かれたものを読むと、聖人が浄土教をしっかり理解され、ご自分の宗教体験の中に織り込まれていたことが分かります。同時に、聖人は、和解の姿勢を持たれて、他人を広く尊敬するよう勧め、他の違った見方を聖人の真宗信仰に関連させ得るような教義を打ち立てられました。

 別の問題点をこれらの概念と一緒にまとめることができます。これは、聖人が阿弥陀仏を無量寿(永遠)の仏陀、つまり、ありとあらゆるものの基である究極の実在、と考えておられたことです。親鸞聖人は、実質的に、天台および華厳の教学から学び取られました。両者の普遍的・統一的な見方では、最も下位のものから最も高位のものまで宇宙のものすべてを包括する仏性の現れであると説かれ、親鸞聖人にとって、仏性は阿弥陀仏に最も広く表れていると考えられました。聖人が自然法璽証(ありのままの真実についての著)で述べられたように阿弥陀仏は私たちが、形も色もない(不可思議な)法身(ダルマカーヤ)を知るようになるための媒体です。

 親鸞によると阿弥陀仏は法身(ダルマカーヤ)の直接の表現であり、(真実)の報身(ほうじん)と呼ばれます。「仏のみ名は、真実の報身より作られたものであり、」(「日本の名著6、親鸞」 教行信証(行巻)親鸞聖人御消息集、石田瑞麿編・訳 211頁 中央公論社 昭和58年6月15日8版)すべてのものは、結局阿弥陀仏から発しています。神、仏、およびスピリチュアルなものやシンボルは、衆生を悟りに導くために阿弥陀仏の資格で法身から表れたものなのです。

 この観点から、それぞれ別個に歴史的・精神的な発展をしてきた他の宗教を、当時の情況下にあったこれらの人達にも仏陀が慈悲を示された方法で見ることができるでしょう。この考え方は、精神的な信念の問題として「他の宗教との」の関係を考察するには、自分自身の信仰が最もすぐれていると思う信心の立場からするのが好適であるこを暗に示しています。しかし、この場合に自分の信仰の方が優れていると主張する必要はありません。むしろこれは、宗教意識と宗教にたいする献身というものの性質の一端です。宗教の伝統がこれと同様の構造を保持していることが多いのです。ヒンズー教では、すべてのものがバラモン教に表れ、この中に一体になっていると考えます;キリスト教にはロゴス(神の言葉)の教義があります。信仰というものが究極において本質的に一つであることを自分の信仰を通して見ても、必ずしも他の信仰を貶そうとしているわけではありません。後に残った、別の考えは責任を回避し、どうでもよいという無関心か、或いは宗教をすべて単に歴史的あるいは社会文化的な事項だと片づけてしまう全く世俗的な解釈です。

 一般に、浄土真宗を含む宗教の伝統はすべて、歴史上発展するとともに、言葉と思想を超越する一つの実在に向けた普遍的教理によって、実在にかんする概念を統一しようとしました。世界の宗教に課せられた責務は、宗教の種々の表現内容を全体的に理解する体系、つまり宗教体験を通して受けた総括的な実在に確かに結びつけられる体系を形作ることです。

 昔は、自分自身の伝統で得た普遍的教理を優先して、個々の宗教体験をあまり大事にしなくてもよかったかもしれません。しかし、今となって大切なことは、宗教信仰の形式が多様である現実をそのまま、真剣に受け止め、人間の宗教性が様々であることを受け入れ、しかもそれを喜び、同時に、自分自身の宗教体験を通して信仰の統一を図る基礎を考えることです。

 浄土真宗徒も含めて宗教人は、宗教の実在が言葉および概念をすべて超越することを認識しなければなりません。私たちは、真宗風の言葉遣いが人間の生活と生(なま)の人間の希望を解釈するのに充分に適切だと思うかも知れませんが、他の人達が異なる方法を見つけるかもしれないことを否定できません。本願が人々を救い助けることから、私たちは、人々がどんな状態であっても、ありのままに受け入れることを示しています。他の信仰を持つ人達が真宗の教えに同意されれば、それは結構ですが、そうすることがその人達と信仰を私たちが受け入れるのに必要な条件ではありません。

 浄土真宗には、現代の宗教環境に前向きに答え、他の人達と建設的に仕事をするための見方と思考方法があります。このような相互の働きは、すべての民族の生活と宇宙の中で働く阿弥陀仏の慈悲の壮大な規模を理解する真宗信仰を強化する筈です。

 浄土真宗がこれまで文化的・宗教的に隔離されていたことから抜け出て、現代の多様な信仰と多文化の世界の仲間入りするとともに、他の信仰と真摯な対話を持つことから、真宗自身の宗教的な未来志向が活性され、明確になり、強化される恩恵が得られます。そのような対話を通じて、真宗のもつ考え方が直面する課題と意義が一層よく知られるようになり、宗教を求める人達の別の信仰対象になりうるでしょう。また、社会的意識のような分野では、私たちは、自分達の住む共同体で問題の解決により敏感でより深く参加するようになれるでしょう。一般に、他の信仰伝統と前向きな関係を持てば、真宗共同体の中で精神的な成長を促進できる考え方とその源泉が得られます。

 すべての世界的宗教はその教えをすべての人々と分かち合おうとします。何らかの方法で伝道活動しない世界的宗教はありません。大乗仏教は本質的に伝道活動する宗教であって、布教を推進しようとなされたことは、親鸞聖人の著述、特に「自信教人信」という、自分の信心を他人と分かち合う意味の言葉を使われたことに現われています。

 人間性が今でも変わっていないので、現代の精神的な問題は昔とそんなに変わっていません。もちろん、今日の問題は昔とその範囲と複雑さには違いがありますが、信仰のおかげで、こういう諸問題に取りかかる際の態度や優先する事項を容易に決められます。従って、浄土真宗は、親鸞聖人の教えにある考え方やその意味に基づいて、現代の人々が直面する多くの問題について考慮する際の助けとなれるでしょう。

 要するに、浄土真宗は、その性格から権威主義の宗教ではないことを指摘してよいでしょう。真宗の教えは考え方を提案するだけで強制はしません。布教活動することがあるかもしれませんが、他の信仰者の見解や価値観を無視することはありません。親鸞聖人は反体制の信者を破門するようなことはなさらないでしょう。真宗は、個人の尊敬および尊厳を維持する点、人格を重んずる信仰です。

 親鸞聖人は、信者に話したり、手紙を書かれるときに丁寧な言葉遣いをされました。聖人、ご自分の周りの人達を「弟子」としてではなく、信仰と行を共にする、御同朋(おんどうぼう)・御同行(おんどうぎょう)と見なされました。浄土真宗は基本的には平等を称える信仰です。

 親鸞聖人の教えは、人々に宗教には恐れや脅しがないことを保証し安心させようとされました。聖人が魔術や迷信をはねつけられたために、罰があたると脅かして人々の信仰の行く先を干渉すようなことは事実上なくなりました。聖人が「他力」と感謝を強調されたことは、仏からいただいた信仰・信心の解釈と共に、多くの宗教の信者の態度を占める利己主義と独善性を切り崩しました。親鸞聖人の教えには人々に、自分達が精神的に優れていること示すために他人と比べなさいというような、形式主義や説教じみたところはありませんでした。

 教学的な領域では、「空」のような大乗仏教を背景とすることで、阿弥陀仏または神について持つポピュラーな有神論の見方と釣り合いが保たれています。阿弥陀仏は神ではないのです。大乗仏教の教理では、言語を使用する必要性を認められていますが、あくまでもそれは最高の真実に近いだけで文字通りに解釈してはならないと説かれています。そのため、仏教と浄土真宗は、より開放的な宗教環境ですが、同時にはっきりとした使命を約束しています。このような仏教的見方は、もっと教典の文字にとらわれたり、客観的な見方をしたりする他の宗教伝統のあり方に活を入れ、内容を豊かにすることができるでしょう。

 私たちが持つ自己と自己認識の成り立ちは、大乗仏教の無についての理解および親鸞聖人に示された現実的な自己理解によって相対的に考えられるれるようになります。私たちは、念仏を通して、自分が如何に利己主義で心が狭いかを明らかに照らして下さる阿弥陀仏の不可思議な慈悲の心を知るようになります。絶対的な他力の信仰(信心)に目覚めてはっきり分かることは、絶対的な世界と相対的(俗世間的)な世界の接点で仏が命のあらゆる問題に関して働いておられるということです。私たちは、(仏の教え)に目覚めると、精神的な転換が起こり、それによって脅威を感ぜずに私たちが出逢う様々の(伝統)を支持し真価を認めることができるようになります。親鸞聖人が説かれた自由と平等の精神によって元気づけられた私たちは、すべての民族と共に励んで平和、公正、自由および相互の理解に満ちた世界を作り上げ、阿弥陀仏の本願の意図および精神を成就することができるでしょう。

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本の完