第8章 親鸞聖人の思想の哲学的特徴

親鸞聖人の思想を解釈する際、この本では、聖人の強烈で確固とした宗教体験を強調してきました。この体験が聖人の生活のスタイルと宗教思想を変え、どういう結果をもたらしたかをたどるようにしてきましたが、それが私達自身の生活と日々の営みにどう意味があるかも含めて考えてきました。

親鸞聖人の思想は極めて実際的であり、私たちの人生に方向を与えて下さいます。しかし、未だこれまで、哲学的にみた聖人の思想の特徴あるいは仏教の伝統に基づくその根拠については、ほとんど触れてきませんでした。私たちの末法時代では、従来の考え方が大部分信頼されなくなりましたが、聖人の体験は、この時代の信心を哲学的に理解するための基盤になりました。

著名なハーバードの神学者ゴードン・カウフマンはこう述べています。

宇宙の起源および生命(人間と歴史を含む)の出現については、現代の科学、宇宙論、および進化論の面から理解が進んでいるが、これを、従来の擬人的な言葉で表した神の概念に分かりやすく結びつけることは、もはや可能ではないと私は主張します。

アメリカの有力な神学部の卓越した神学者によるこの主張は、現代キリスト教の思想だけでなく、認識されていると否とを問わず、従来の有神論的宗教一般の行き詰まりを表しています。

欧米の神学は、より宇宙論的な性格を持ち、神が自然の外界の中に存在することを示す証拠を求めてきました。これは、聖書の初めにある天地創造の話からきております。しかしながら、様々な分野での現代科学の進展によって、従来の考え方の有効性が弱体になり、人の生命と文化が進化するという性格が明らかになりました。さらに、種々の現実に対する宗教・哲学的な見解が世界中にあるので、ひとつの考えだけが真実であると確立するのは困難です。

アジアの哲学・思想、特に仏教は、自然の外界の存在を当たり前の、望ましいものとして受け止めます。しかし、この哲学では、人間の苦痛および矛盾は人間の心および意識の中に原因があるとし、様々な心の内部と外部の条件によって影響を受けるので、心の役割を強調して、世の中に関する見方を形成するのです。

現代人の間では、心と意識のはたらきについての理解が広がってきました。精神性の価値観と宗教的信心は、歴史と文化の影響を受けますが、人間の経験および見方に基づくことが明らかになりました。従って、現実を適切に見るのに、人間の経験が広い多様性を持つことと現実の解釈を確信し調和をとる方法を見つけなければなりません。

どんな宗教でもその教えが現実を文字通りにあるいは客観的に表していると単純に思い込んでいる場合、この問題に直面しなければなりません。伝統の権威に頼ったり、多数の信者がいると主張したり、神のお告げにすがったりしても、この問題を避けて通ることはできません。私たちの現代世界をざっと見ても、唯一の客観的な真実であるとされてきた宗教の見解が私たちの現代世界の紛争および暴力に多く関わっていることを示しています。問題の根本は、発展する現代の科学的および異文化間の社会的発展に目をむけないで、無批判に信じ、伝統を曲げて解釈することからきています。

宗教上の信心は、それが、社会で都合よく生活し参加していくに必要な最も優れた知識と無関係であれば、どのようにして、生活および人間の精神を高めるのに積極的に適切で重大な影響を与えるでしょうか?宗教にたいする理解が猶今日的な意味があり、人間生活に大切なことして生き残るには、その時代に得られる最高の知識と手を組んで、生活の実態をはっきり見抜き、理解する力を与えなければなりません。それによって平和と公平な世の中に一緒に生活するための指針が得られます。

長い歴史を通して、仏教では、知的および精神的な見方を育成し、知的に理解し、宗教的に考察することと、批判的に反省し個人として帰依・専心することを一体化しようとしてきました。仏教では、現実というものが、私たちの心の中の経験および意識に根ざしていて、あらゆるものがすべて相互に連携があり、活発にぶつかり合っているものとして見ています。そのような考えから、私たち自身の内、および人と人の間の調和を求めて努力する全体的な見方が私たちに与えられます。空の概念の中に表現されていますが、どこまでも不可思議なことと現実の神秘性を仏教的に理解する場合、科学研究や精神的な探索の面で変遷する、現実に対する多くの解釈を自由に受け入れることが可能になっています。

仏教の八正道の第一歩は、ものごとをありのままに見ることで、意見や頑な考えにとらわれないことです。仏教では、人間を中心とする尺度で判断する利益を超越するので、心と精神が柔軟でいられるのです。仏教では、精神性の全世界を描き、その中に私たちの形ある世界を包み、人の命を広い宇宙が意味する時間と空間の一つの面と見なしています。悟りを求める中で、心と意識を問題点の中心に据え、仏教は、私たちが根本から無知であり、人を惑わす見方をもつ点に注意を払っています。なぜなら、こうしたことが人間の貪欲、憎悪および苦痛の源であるからです。

私たちが世界の至る所で見る深刻な苦しみは、自分自身を惑わす利益の追求に巻き込まれた心から出ています。この本で先述したように、仏教は人間の経験に批判的で、因習破壊的であり、単に私たちの我欲中心主義を深めるだけの役目をするような現実世界を見る考えに挑戦します。

親鸞聖人は、一生の間、仏教の知的・精神的な伝統の中で教育されました。聖人は、精神性に基づく現実について理解されたことを簡潔な文句で記されましたが、これは、聖人が86か88歳の晩年でした。これは「自然法爾章」(そのものとして全くありのままである真理)と呼ばれています。この本文では、聖人の思想の内の一片が伺われ、教えが仏教の伝統全体からみてどうあるかが示されています。この言葉は、聖人が初めて使われたのではりませんが、永年の熱心な宗教体験と反省にもとづいた言葉使いで述べられています。ここに引用しました。

自然法爾の事

「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、

然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者の

はからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」とい

ふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法

爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、こ

の法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざ

るなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。

「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ち

かひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたま

ひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしか

らんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。

ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、

かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。

かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬ

やうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。

弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、

この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せ

ば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不

                思議にてあるなるべし。[西本願寺サイト:

                現代語訳

                [自然法爾じねんほうにということ。

自然の自はおのずからということであります。人の側のはからいではありません然とはそのようにさせるという言葉であります。そのようにさせるというのは、人の側のはからいではありません。それは如来のお誓いでありますから、法爾といいます。法爾というのは如来のお誓いでありますから、だからそのようにさせるとい うことをそのまま法爾というのであります。また法爾である如来のお誓いの徳につ つまれるために、およそ人のはからいはなくなりますから、これをそのようにさせるといいます。これが.わかってはじめて、すべての人ははからわなくなるのであります。ですから義の捨てられていることが義である、と知らねぼならないといわれます。言葉をかえていいますと、自然というのは、元来そのようにさせるという言葉であります。阿弥陀仏のお誓いはもともと、人がはからいを離れて南無阿弥陀仏と、仏をたのみたてまつるとき、これを迎えいれようとおはからいになったのですから、人がみずからのはからいを捨てて、善いとも悪いともはからわないことを自然というのである、と聞いています。如来のお誓いのかなめは念仏の人をこの上ない仏にさせようとお誓いになったことであります。この上ない仏といいますのは形もおありになりません。形もおありにならないから自然というのであります。形が おありになるように示すときには、如来のさとりをこの上ないものとはいいません。形もおありにならないわけを知らせようとして、とくに阿弥陀仏と申しあげる、と聞き習っています。阿弥陀仏というのは自然ということを知らせようとする手だてであります。この道理がわかれば、この自然のことを常にとやかくいう必要はありません。いつも自然、、      ということをとやかくいうならば、義の捨てられていることが義であるということさえが、なおはからいとなるでしょう。これは如来の智慧が人の智慧のとどかないものであることを示すものです。末燈鈔まっとうしょう「世界の名著・親鸞」p108 編集 石田瑞麿 昭和58年6月15日8版発      行、中央公論社]

仏教で使う自然(じねん)という言葉は、お浄土で最終的に到達する自由および自然な行動の条件のことをいいます。この自由は、私たちが因果関係の束縛を超越したことを示しています。さらに、これは、私たちがこの世で業と生活に対する執着からきている思案や自己中心のはからいにとらわれないことを意味しています。むしろ、お浄土では、外部からの刺激から起こるより、すべてがそれ自身の内(心)から生じます。

この実存の状態や条件は、悟りと涅槃において至高なこととして体験されます。浄土では、涅槃が神話的に描写されており、すべてが「自然」に起こります。どんな事でも考えたり、したいと思うことすべてが直ちに実現されます。直ちに成就する、即時性、自発性、自由性が悟りの特色です。禅の伝統では、師からの課題にたいして自然に応答することが弟子の悟りのしるしであり、思想が文字と論理の点で構造上硬直していないことを表しています。

信心の中心に位置する「自然(じねん:ありのままの真実)」についてまとめられたお言葉の中で、親鸞聖人は、普通は浄土の条件にぴったりの自然という意味を、阿弥陀仏の慈悲および知恵のはたらきとして、私たちの世界および生活に応用されています。阿弥陀仏が私達に即時に、自由に、また、自発的におはたらきになられることは、私たちの現在の生活の中で、信心の状態としてはっきり示されています。信心自体が生きとし生けるものをすべて救うという阿弥陀仏の本願が成就されている証しです。

親鸞聖人が理解されたところでは、大経には、救いの道が神話の物語の中に描かれており、日付順に叙述されていますが、これは、信心が私たちの心中にしっかりと根を下ろすや否や完全に実感するのです。つまり、経典に書かれている神話は私たちの神話になります。親鸞聖人に関する限りで、私たちは、また「阿弥陀仏がもっぱら私だけのために本願を立てられた。」と感嘆できるのです。(歎異抄の結びの言葉)。神話は、私たちの精神性の内容とその可能性を意識する場合のパラダイム(規範となる考え方)になり、私たちが経験する過去、現在、および未来の段階的世界で、それらの境目が精神的な意味では、消滅することになります。親鸞聖人は、信心が成立するや否や、私たちが必ず最終的に救われ、解放されると主張できるのです。それは、その成立の瞬間に本願の成就が私たちの意識にとって実のものになるからです。これが意味することは、神話の精神および意図を自分のものとして受け入れることで、私たちの意識が転換していくのが体験されるということです。神話は、私たちの現実の生活に密着しなければ、古代の物語として留まり、意味を持つことがないでしょう。

この過程は、私たちの体験を通して、教えに出会い、真の教師に出会ったことで始まりますが、丁度、親鸞聖人が法然上人に出会った場合と同じです。

この相互の働きの中で、精神上の救いは、私たちが計算し、意図した行動を通じて達成したり獲得するものではありません。もっと正確に言えば、心の転換が起こると、救いが与えられ、生まれますが、それは、新しい現実を私たちの心の中で意識すると同時に分かります。必ず、命を理解する心に転換が起こり、それによって、私たちが他の人たちとお互いに結びついていることに気づき、私たちの生活を支える慈悲があるのに気づきます。この救いは、この世に生きて交わって行く際のより意味の深い心構えになります。

心の転換を通じて、生と死の流れの中で、他の生きとし生けるものすべてとお互いに結びついていることに気づきます。また、同時に、利点・利益を追求する自己中心の利己主義的な煩悩に悩まされた生活が、ありのままに浮き彫りにされます。私たちは、お経の物語の中の菩薩のように、私たち自身を精神的に解放するただ一つの方法は、他の人たちの解放のために働くことであることが分かるようになります。親鸞聖人は、宗教的信心ということを個人が未来救われたいという努力から、私たちの救いがすでに保証されているのを現在受け止めることへと転換し、信心は、他人への慈悲と思いやりという形で現れるとされました。 (自信教人信)。

精神的な洞察において、この転換は、他力のはたらきによる結果と見られています。

それは、私たち自身が考案したり決めたりした結果ではありません。この転換は、神話を私たちの生活の現実としてとらえる心の目覚め、突然の悟り、考え方の変更という形で現れます。それによってすべての生命が私たちの責任であると、心と意志を集中させることになるでしょう。それによって、生きとし生けるものすべて活気づけるよう成就し、発展することを促したり願ったりすることがどういう意味かが明白になります。

親鸞聖人は「しからしむ」(ある事を起こさせる)という言葉を使っています。しかし、他力は神のように、私たちの外にある他のものではありません。もっと正確に言えば、信心は、私たちの心の中に自ら得た確信として、当たり前の私たちの生活の自明の原理として生まれます。仏教の伝統に基づいて、親鸞聖人は、私たちの心の内にあるすべてを抱く仏心/仏性の表れとして解釈しました。

次のように書かれています:

この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。(この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり。)「唯信鈔文意」   (浄土真宗聖、注釈版. 本願寺出版部、1988.] p.709.

(この如来(仏陀)は無限の世界に満ち満ちており、すべての生きとし生けるものの海の心を満たします。このようにして、植物、木および土地はすべて仏性を達成します。)

仏性によって、私たちの真の自己を発現し、私たちの最も深いレベルで精神的に到達できる可能性を私たちが知るのです。私たちにとって呼吸して命を支えるのと同じく自然に、仏性が私たちの命の真実であると受け止めます。

親鸞聖人は、それまで平易で単純化されていた浄土教を以前より高いレベルの抽象概念までに高められ、より深く哲学・心理学からの意味を与えられました。哲学的なレベルでは、現実は動的な過程と見られ、心理学的には、信心の体験、心の転換(回心)および信心がたどる段階(三願転入)に重点がおかれ、聖人自身が精神性の面で変化を遂げ、精神的世界観を広げられ経緯を物語っておられます。

哲学的には、親鸞聖人は浄土教から神話を取り除かられました。阿弥陀仏もはや単に多くの仏陀がおられる中のお一人ではありません。私たちの宗教の意識の中で出会った究極の現実として、阿弥陀仏は最高の仏陀で、このお方から他の仏がすべて現れているのです。阿弥陀仏は、遥か無限の距離に離れた西方浄土におられて、偉大な宗教的な力で、他の世界にご自分を表明される仏様ではありません。阿弥陀仏は、現実そのものです。真に自身を任せる行いである信心と持ちつ持たれつの原理とその過程を深く理解することを通して、私たちの心の中で現実のものになるのです。信心という目で見れば、この過程は、私たちの日常生活に意味を与える、阿弥陀仏のはたらきであることが分かります。

親鸞聖人は、私たちが全くの抽象的概念だけで現実について意味のある話が出来ないことを悟られており、「阿弥陀」という伝統的な用語を使用されつつ、阿弥陀仏に対する概念を最も高いレベルにまで高められました。聖人は、阿弥陀仏が、天台宗の教にある永遠の昔(久遠実成くおんじつじょう)に成就された仏を意味するとされ、経典に十劫という昔(永劫)に仏になられたお方と区別されました。親鸞聖人の言われる久遠の阿弥陀仏は、業と修行によって行くことが出来る、よく知られたタイプの仏教が教える阿弥陀仏を超越しています。

親鸞聖人は、久遠の阿弥陀仏が真実の無定形の、無色で、不可思議な現実、法身(ダーマカヤ)の直接的な表現であると考ええおられています。シンボルと現実の間の相互関係から、形のある阿弥陀仏は、慈悲と知恵が最終的に行き着く場として、永遠の生命および無限の光の仏陀として現実の最高レベルの意味を表しています。私たちは概念を言葉の衣服で包んで形を与えますが、親鸞聖人は、阿弥陀仏が光の形、無形の形を持ち、それによりすべての形が分かることに注目することで、精神性を高いレベルで理解・維持されています。

親鸞聖人が阿弥陀仏について理解されたことおよびそれが日常生活にとって持つ意味は、現代の思想に関連性があり、人間がややもすれば、神に関する考え方を具体的、対象的に表して考える傾向を防ぎ限定します。聖人の取られた道は、方便の原理、慈悲のある手段およびシューニャタ(梵語、空)に関して、大乗仏教とぴったり合っています。「慈悲のある手段」とは、私たちが文言にとらわれないで、宗教の概念が現実と私たち自身についてより深く理解するのを助ける、コミュニケーションの道具あるいは方法であることを示しています。これらの宗教の概念は神話、シンボル、比喩、イメージやたとえ話の形をとることがあります。問題は、それらの概念が生活についてどんなことを明らかにしてくれるかであって、世の中のことをどれだけ正確に描いているかではありません。空の概念は、現実がどうあっても、私たちの普通の考え方の分類では、現実は、不可思議であり、私たちが閉じ込められている世界を超越していると教えてくれます。

この見方で、真実への道を決める力は、人の生活についての理解を変え、私たちが現実のより大きい次元の一部であり、慈悲と知恵を日常の人間関係へもたらすよう努力する意識を起こさせる力です。私たちが真実に触れたと自分で分かるのは、自分たちが生活して行く際の主な動機が慈悲、愛、公正、協同体意識および平和である場合でしょう。複雑な人の生活の中で私たちが相互に依存していることに気づくと、私たちには、生きていることの大きななぞが見えてきますが、そこでは、各自は、より大きな、私たちの命を保ってくれ、無条件に受け入れてくれる物事(世の中)の秩序の一部に過ぎません。この秩序を生きるための基盤として認めれば、生活の色々な問題に直面する強さと勇気が生まれ、私たちがこの人間社会をつなぐ鎖の輪として参加し、他の人達を支援するよう、呼び声が聞こえます。他力は、社会組織の外にある力ではなく、大きな命の網の中にある私たちの自我主張の範囲を表すシンボルです。

阿弥陀仏を知的に、生きていく過程という大きな不可思議のシンボルとして見てみますと、現代科学と哲学とともに出現した広い範囲の世界が理解できることが分かります。広大な宇宙が人間、つまり凡人一人一人の生活自体とかかわりがあるとは言えませんが、それでも、この宇宙のもつ構造があるために、私たちが地球と呼ぶこの小さな一隅の中ですべての可能性が与えられながら生きていられるのです。

阿弥陀仏および自然(じねん)が、宇宙の過程のシンボルとしてあるので、より広い宇宙ならびに現実の原子を構成する粒子段階でますます深く究明してゆく現代科学の発展を高く評価できます。これらの問いかけをしたり、人間の生命のユニークな点について私たちが考えるたりしたとき、不可思議と驚きを感じますが、これらはすべて、究極の慈悲および知恵のシンボルとして阿弥陀仏のなかに抱かれています。

親鸞聖人は、私たちの外部にある自然界について述べておりませんが、聖人の現実に対する精神的な考え方は、近代科学の精神並びに新しく起こった生態学(エコロジー)の関心事、つまり人間と環境全体との関係の探求によく一致しています。この問題にたいする関心の多くは、文明人が自然に向かって我がままなために起こした環境汚染と資源保存の問題から来ています。生態学的には、人間は現実の自然にとって無くてはならない一部分であり、また、自然はすべて生きとし生けるものの生活に無くてはなりません。

仏教が教える縁起論の原理は、阿弥陀仏の概念では言わずとも暗に知れており、この原理は、近代科学の発展により強く支持されています。この関係の精神的な意味が再認識され、自然の均衡に対して勝手に、自分たちの意志を押し付け、生きとし生けるものの生命を侵すことのないような道徳観念を作り上げなさいと人々がチャレンジされています。私たちは生き残らなければなりませんが、他のものすべてを犠牲にしては、なならないのです。阿弥陀仏の神話の中にある「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れざれば正覚を取らじ」(「もし他の一切のものが一緒に到達しないのであれば、自分は最も高い悟りを受けないであろう」)という原理は、わたし達自身が成就する手段としてこの世界を清浄にするよう、私たちを促す浄土仏教からの見方を示しています。

阿弥陀仏を宇宙規模で理解する結果として、さらに親鸞聖人は、自力的姿勢が現実にそぐわないこと明らかにし、それにより従来の浄土教で重要な役割を演じた自力対他力の二元論を超越されました。聖人が洞察されたことは、世界で私たちがまさに存在している事自体が他力の存在を証言している事実を暗に示しているということです。私たちが世界でどんなことをしても、それらは私たち自身だけでしているのではありません。物事には秩序があり、それによって私達が、ある意味では、私達を通して支えられています。私たちのする行為が私たちの行為で、また同時に私たちの行為ではないので、自力・他力の二元論は妄想にすぎません。自力は疎外された人がなす表現です。自力に基づいた宗教的努力は、妄想によって妄想を止めようと称しているので、自家撞着です

親鸞聖人は人間性について深く理解された結果、自然(じねん)という用語に注目されました。聖人は、自分の精神的な無知、煩悩および妄想のために、人を現実から心理的に離してしまう根本的な人間疎外感を独力で克服することができないと言われました。そうであるので、救ってくれるのは人間の努力以外であるに違いありません。

親鸞聖人は、この疎外感を鋭く感ずれば感ずる程、疎外感を克服するよう努める現実の力をよく感ぜられるようになりました。

親鸞聖人は、この力を仏教という意味の中で考えられましたが、私たちは、自然と人の生活の世界には、絶えず超越したいという気持ち、動きがあると気がつくかもしれません。進化に見られるように、木や植物の花が咲くことや生き物が絶えず環境に順応していく生命がずっと続いている流れの中に成長と発展があります。人間の体験では、私たちの身体が成長し、知覚・理解する能力も成長します。自然界では転換や超越することが起こりますが、これらは、精神面から見れば、生命を全うし再生し、生きとし生けるもの一切の精神性レベルを高めるように努力する現実の力か活力であると解釈できます。阿弥陀仏は、私たちが精神性をもっと理解し、世の中での生活を転換するよう私たちの心の中で働きかける他力のシンボルです。

救いまたは転換は、人間と最終の現実である阿弥陀仏とが同一性であるということに基づいてのみ達成できます。その理由は、完成することによって始めて完成できるということです。生きとし生けるものが純粋になれるためには、始めから清浄になれる可能性を持っていなければなりません。この可能性は、私たちの人間の経験の中身である煩悩や無知の中にはありません。従って、親鸞聖人は、法然とは異なっているやり方ですが、「すべての生きとし生けるものは、信心によって実現する仏性を持っている。」という大乗教の中心的信仰を非常に真剣に受けとめました。浄土教について聖人は、一般的なレベルで考えられていた二元的に取り扱う傾向を打ち破りました。

生きとし生けるものと仏陀が基本的に同一であると(機法一体)仏教では理解されており、その見方は、悟り、つまり救いであり、人間疎外の問題に対する鋭い洞察力を示しています。疎外は分離、つまり人間間の離れ離れな関係を意味しています。二元論の行き着くところは、キリスト教のように神と人間性の間に隔たりがあるという意味での人間の基本構造だと仮定すれば、その場合に疎外が現実に組み込まれているので、本当に疎外を克服することができません。これは、神と人間性の間がつながっていないキリスト教神学において顕著であり、両者間になんらかの同一性を置くことが必要です。従って、神は人間の姿をして(受肉、托身)、自身人間に仲間入りするのです。ポール・ティリヒは、この問題に取り込もうとして、神を人間存在の基盤として取り扱いました。このようにして疎外は最終でなく、私達自身の存在の起源である神との結びつき(合一)へ戻ることで、彼はこの問題を克服しています。

聖人は、自己認識を高められ、救いに必要な一体性をより深く、より強く読み取られていました。一方、自然法爾は、人のはからい、つまり人の意図、計算、主張あるいは設計では何も起こらないということを絶えず注意しています。これら自己の行動は、自ずから自己と他者との区別があることを(二元論)を想定します。他方、親鸞聖人は、信心を体験する基礎として仏性の概念を再建しました。

親鸞聖人の考え方は、宗教が善悪の法律尊重主義や人間の操作、計算を越えていることを暗示します。救いは、制定された戒律方式に応えることで得られるわけではありません。戒律は、心中で生ずる動機と外に出る行為の間の断層に沿って分けられるので、偽善を生ずる根拠になります。さらに、宗教は人間の野心および欲望のために操作されるべきではないのです。誇りを持つこと、不完全さを心配すること、自己を誇大に見せることは、すべて許されません。宗教は道具ではありません。

救いは、人間が能力を持っているとか持っていないことで決まらないばかりか、人がしっかりしているか、ぐらついているかにも依存していません。阿弥陀仏の本願は、何にも邪魔されずに目的を成就されます。救いを現実自体の過程つまり、他のものの中に、その基礎を置くことで、親鸞聖人は、真実が人々の単なる見解、或いは、はからいを越えていることを示されています。信心は、信仰としてただ単に個人のものの見方を指すのではなく、現実そのものであり、阿弥陀仏の本願のシンボルを通して表されています。

「自然法爾章」の中で、親鸞聖人は、とりわけ、信心が最も深いレベル(次元)で真実と現実とに関連していることを示されています。それが信心の本質ですので、真実についての知識を持ち、理解すると、救いが得られます。しかし、人は救われる前に真実を求めるべきです。親鸞聖人が「念仏が浄土に生まれるための種か地獄に落ちるための種かどうか、確実な知識としては知らなかった」と言われた時に、聖人は自身がもつ真実に対する見方の中で、敢えてご自分を賭けられたのです。しかし、唯円房が歎異抄第二章の中で述べているように、聖人は、ご自分の生活に光明を投じた真実を理解されていましたのでして、その立場を貫かれたのです。

今日、宗教を単に幸せになるとか満足感を得る手段、心の平和を持つ手段と見なす人が大勢います。満足感、幸せ、心の平和が宗教から得られるのも分かりますが、親鸞聖人はさらに喜び、平和、および平穏について語っておられます。しかし、これらの結果が起きるのは、ただ人が人生の真実に気付いたからです。もし宗教が先ず、第一にこの世で真実を求め、生活の中でそれを実現しようとしないなら、それは無益な利己主義的な活動です。そのため、親鸞聖人は、「教行信証」の正式名として「顕浄土真実教行証(證)文類」 (浄土教[伝統]の真実の教え、実践、および実現を顕す文類を集めたもの) を与えております。

親鸞聖人の教えには精神的な現実の理想像が表されていますので、人が悲劇や苦痛にあっても喜びと安らぎを持つことができます。私たちは、苦痛にあっても、周りの状況に振り回されないで、心の中で自由になれます。本願を確かに信ずることで、私たちは、人生をあるがままに受け止め、静かな安らぎと共に人生の色々な問題や事件に耐えていくことができます。

私たちが現実、つまり私たちの人間性についての真実を把握していなければ、人間の価値と尊厳を打ち立てる方法はありません。もし人の命を、現代の宗教と無関係な研究および科学を通じて確立された生命の計画の範囲だけで理解しようとすると、人間の人格や命の価値を表しようがありません。科学には、私たちに生きていることの価値をもっと尊敬・認識させようとする傾向がありませんでした。科学は、価値判断をしないと主張しています。

親鸞聖人が示した現実についての考え方では、人の価値を確立するのに、すべての生命と同様、その人を現実自体の慈悲の発願を受ける側の人として判断します。

この見方はそれ自体、科学的に論証可能ではありません。しかしながら、自然が私たちの命を支え、私たちの人生をめぐる仕方に実にはっきり出ています。このような関連では、生命の意味することは、私たちのもつ悪と煩悩にもかかわらず、私達の人生自体がその慈悲の発願の表れなのです。ですから、日常生活において、他の生きものや人間との関係を持つ際、私たちはその慈悲の発願を実行するべきです。

親鸞聖人の宗教的考えと体験を基礎とすれば、私達世代の問題に適用できる人生論が出てきます。聖人が何世紀前のお方であるにもかかわらず、聖人の人間としての経験は時間を超越し、普遍的な人間の問題に重点を置かれています。仏教伝統の広い立場から、聖人は、生命の基本的性格および世の中での人間行動を決める基礎に踏み込まれた洞察力を提示されており、これからすべての人が学び取ることができます。

結論として、私たちが強調したいことは、親鸞聖人が、ご自分で「真実について独り占めしている」とは決して主張されなかったことです。強い確信をもった人でありましたが、聖人は異なる見解を抱く人たちを非難しませんでした。私たちの現代の時代におられたら、聖人は、異なる考えを持っている他の人達でも、もし現実を見る目が生命の真実を伝えるような人達なら、一緒になって働こうとされるでしょう。命と光、慈悲と知恵を集めるシンボルとして、阿弥陀仏の目標は、宇宙の共通の命を共有するからには、人々がすべて一緒に結集することです。