第12章 — 信心、喜び、感謝

浄土真宗の教えは、精神性の面で私たちを解放することを説いており、これは、深い喜びと感謝となって表われます。しかし、明らかに、真宗は本質的にその魅力が感情に訴えるだけの感傷的な信心ではありません。親鸞聖人の考え方にはありのままの姿が出ています。私達がありのままの自分自身と命に新たに目覚めると、普通なら気づかないようないものでもはっきり見えてきます。

ありのままと言っても、浄土真宗が人の感傷、態度や感情に無関心というわけではありません。感傷主義は、単にその場の状態に反応するだけです。道徳主義は無味乾燥で人間離れしがちです。浄土真宗では、純粋な感傷主義および合理的な道徳主義の間の釣り合いが支えられていますが、この釣り合いは信心に基づき、精神性の自由を遂げた人からにじみ出る喜びと心から深く感ずる感謝の気持ちで支えられています。 浄土真宗の喜びと感謝の気持ちを理解しようとするとき、これらの気持ちを現代宗教の現況と混同しないことが重要です。現代宗教では、ある宗教の考えが真実であるという評価の基準は、それで人が幸福になれればよいとする人が多いのです。今日、充足感と満足感を与えることを主眼とする「幸福教カルト」があります。このようなカルトについて、「私を満足させてくれました」とか「私は幸福です。」と言われているのよく聞きます。さて、そのような状況が実際にあるとしたら、悪いと言おうとしているわけではないのです。みんなが幸福になれるとすれば、しれはなんと素晴らしいでしょう。しかし、その幸福と満足感を、世界中の苦しみの現実や、それと自分達が関係していたり、共犯であったりすることに目を瞑って得ているなら、本当の価値がありません。それは利己主義です。

さらに、この充足と満足感を世間的なつき合いによって得ているなら、社会性があると言ってもよいが、真の意味では宗教ではありません。宗教は、その奥に秘める特性から共同体が生まれ、人々が集まってくるようなものでなければなりません。もし、不和を生じて、他の人々を軽蔑するようになるなら、真の宗教としての価値はありえません。

歴史上の偉大な精神性の指導者達、特に、流罪で迫害・隔離の憂き目にあったり、場合によっては処刑された人たちを調べてみると、これらの宗教性が深い心の内部の実態から出ており、外的環境に左右されていなかったことが分かります。宗教(信仰)生活の最も奥にある様相を表す特性は表面的な特質あるいは価値観ではありません。

これらの宗教性は、宗教指導者等が信者を操作して引き起こすことができません。もっと正確に言えば、これらは、一人一人が真実の自己を心の奥底でどう気付くか、それがすべての生命を支える自然の現実とどう関係するかで決まる実在の状態です。

宗教生活の真実の特質は深い精神性の体験から出てくるもので、私たちの真の本性を反映しています。宗教体験という意味では、このような宗教生活の特質は、私たちの内の生命と私たちにとっての意味を評価する際に起こるこころの転換を示しており、また、自分たちがなす誓約、つまり方向の転換、本質的には、宗教上の転向に基づいています。転向することは、親鸞聖人がご自分の精神性の旅路を「三願を通じて転入」と述べられた過程です。聖人は、この転換はありきたりな考え方を越え、「横にはねこえる(横超)」と呼ばれた方法で成し遂げられると述べられています。これは、聖人が経文から採られた専門語で、瞬間的に信心が起きた刹那のことを意味しています。これは、禅の伝統で強調する、突然到達する悟りに例えてもよいのです。浄土真宗では、このことは、救いが絶対他力によるという根拠を表しています。

親鸞は、ご自分が決定的な転向を経験されたと伝えており、法然上人に出逢い、短期間共に過ごされた時の手記の中で表明されています。これは、後に、聖人があらゆる批判に立ち向かうとされた決心の中に表れており、ご自身の記録に残され、聖人の妻もそう記しています。(大谷嬉子著「親鸞聖人の妻恵信尼公の生涯」1980)聖人は転向の誓約を果たし、ご自分の信念を貫かれたと伝えられています。

親鸞聖人が存命された長い年月の間、幾多の圧力および困難に出逢われましたが、絶えず阿弥陀仏を通じて戴いた救いに喜びと感謝の意を表明されています。ここで喜びと言っても、幸せのことを言っているのではありません!。今の世の中では、「幸せ」ということは、問題や困難がない状態と定義されています。私の知る限り、幸せが人生最高の成果と説く宗教はありません。それでも、喜びを説く宗教は、沢山あります。喜びは、人生の苦しみと問題がある中で出て来る状態です。喜びは、曖昧と疑いの生活を体験する中で得た、真実を認識することです。

親鸞聖人は、喜びについて二つの見方を区別されています。一つは、回顧的な喜びと呼んでもよい「慶喜(きょうき)」で、他は予期する喜びと呼ぶ「歓喜(かんぎ)」です。慶喜(回顧的な喜び)は、信心することで既に戴いた喜びと確信です。それは、阿弥陀仏の本願により私たちの救いが完了し揺るぎないという確証です。歓喜は、予期する喜びで、私たちが浄土に往生するときに何を戴き、享有することになるか期待する喜びです。親鸞聖人によれば、この二つを合わせたものが真に往生する確証のある人々の仲間入りする資格に明示されています。しかし、歓喜が最もよく知られた宗教的喜びの見方、つまりこの世からあの世に移る時に悟りが成就するという期待感です。私たちが往生すると約束された時に喜ぶべきだという説教が経典によく出てきます。

しかし、親鸞聖人にとっては、阿弥陀仏が仏の誓願を成就し、信心で仏の真心を分かち合って私たちを救いとられたことが、喜びの最も大切な表現です。これこそ、私たちの宗教体験の中心であり、将来 往生してから悟りが成就できる希望が持てる根拠です。親鸞聖人の信仰は現在の宗教であり、未来志向す。回顧の喜びがなければ、予期する喜びは単に強烈な空想になってしまうかもしれません。

喜びは、仏教の伝統では種々な意味に理解されてきました。初期の小乗仏教では、喜びは、最後に乗り越えなければならない精神的要素と見なされていました。そのような傾向は、小乗の伝統では、苦しみは私たちが煩悩によって世の中の事物に執着する事が原因であると初期に強調されていたことから来ています。自分が最終的に解放されるためには、煩悩の現われであるすべての気持と感情や感傷を乗り越え、放棄しなければなりません。

ブッダゴーサ(仏教教典をサンスクリットからパーリ語に翻訳した西暦430年生まれのスリランカ人)はその著、「純粋の道」の中でいろいろな形式の幸福について詳細に分析しています。これらは瞑想(ジャーナ、静慮、禅)の最初の段階を呼び起こす要件です。人が瞑想して、その様々な段階を経て進むにつれ、 ブッダゴーサは:

「至福、言いかえれば、精神的喜びは大きく見えるが、第四段階、つまり瞑想のレベルでは、これらすべての形式の幸福を超越する。」

と指摘しています。 さらに、 ブッダゴーサが述べるように、その境地は美徳を培うとき出てくる状態です:

そのような美徳は次の結果になります:心の中で後悔しないこと、嬉しさ、幸福、静けさ、喜び、反復、発達、育成、美化、要件(集中のため)、準備(集中のため)、成就、全く冷静、  消失、停止、平和、生の知識、悟り、涅槃。Buddhaghosa, “Path of Purity” (IV-181-189)pp.171-173  から拙訳

瞑想の第四段階でブッダゴーサは述べています:

楽しみと苦痛を放棄し、また喜びと悲嘆が前に消失して、行者は瞑想の第四段階に入り、そこに留まります。.

大乗伝統は、初期の仏教の教理を取り上げましたが、他の細かい点は除きました。当時の人たちにとって、衆生すべてが仏性を共有しており、思いやる心がその中心にあります。すべての命は[縁起により]相互に依存しているので、一人一人が、お互いが成長・発達するのを助け合うのです。

すべての生きとし生けるものの相互関係をより深く理解し、それにより大乗は、悟りを求める中で厳格で、堅苦しく、厳格に見える初期の小乗にない面を開きました。大乗伝統には、人間関係の価値を幾分認める一般大衆的な考えがありました。このように修正を経た情況下で、信者らが仲間の救いのために働くことになり、喜びを感ずることが大事になりました。

菩薩は、修行歴の初期の段階で、喜びの段階に入ると考えられています。菩薩がその喜びを放棄する様子はありませんが、苦痛をより深く理解し、慈悲の心が広がり、すべてその喜びの中に含めるようになります。菩薩の概念を研究したハル・ダヤル(Har Dayal) は「思いやりの喜び」(mudita)について、こう言っています。

ムディター(Mudita(思いやりの喜び))。この語は、いろいろに翻訳されて来ました、「感謝」;「利他のよろこびMitfreude。」「充足」、「喜び」、「嬉しさ」、「皆が幸福であるときの幸福」、「das Freudgeschaftsfuhl。」などです。E.Senartは、これがmuduta(穏和、柔軟)のPrakrt語の形式かもしれないと言っています。しかし、この言葉の感じは高潔で正義の人  (puny-atmakesu プニヤアトマケス)  に向けられたものと言われています。言葉の主要な点は、喜びや信心であり、失 意、渇望、嫉妬、不誠意および敵意のないことです。  それは、すべての機能が機敏であることと  関係しています。

Har Dayal. The Bodhisattva   Doctrine in Buddhist Sanskrit Literature. (London, K. Paul, Trench, Trubner, 1932.)  pp. 228-229.

菩薩道の諸段階に関するCatasahasrika (十万偈般若波羅密多経)

. の般若心経の記述よりますと、仏陀になる人は、友情、慈悲、思いやり[利他]の喜びおよび平静を含む、四つの「無限の」黙想を沈思黙考することから始めます。第二段階で、修行者は、生きとし生けるものを三道で育成し、献身の精神で衆生を救うために働く大きな喜びを体験します。(同書 p. 276.)菩薩地(菩薩修行の十地の上方の段階)では、最初の段階をpramudita vihara (歓喜地)「喜びの場」と命名しています。この段階に達した者は、次のように記述されています:「この修行者は怒り、悪意および興奮がなく、恐れも危険もすべてなくなったので、心も体も喜びでいっぱです。」(同書279.)

十地経(Dasabhumika-経典)は、これらの段階を最も系統的に示していると言われています。これも初期を喜びに満ちた段階と呼びました。大乗荘厳経(Mahayana Sutralamkara)の解釈によれば、この言葉は、菩薩がやがてすぐに菩提、つまり悟りに到達し、すべての生きとし生けるものの良いところを伸ばすように努めると判った時に、深い喜び(moda)を感じることを示します。修行者が「悟りの考え」に到達すると、この段階に入ったことになります。

これらの記述で顕著なことは、喜びが菩薩の使命と真実の意識に関係しているということです。菩薩の他のどの活動も進歩もこれを土台にしています。そのような情況で、喜びは、別に問題がないという表面的な幸福ではなくて、問題に直面しようと人を促進し行動に出させようとする原動力です。喜びは菩薩が真実を完全に理解したという確信です。

親鸞は、信心を得た時の喜びについて強調されていますが、その根拠は、信心と喜びは、両者とも阿弥陀仏の功徳の賜に基づくと説く第十八願の誓願成就に関する大経の一節に遡ります。

あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く。(http://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/database.htm 『浄土真宗聖典』聖教データベース 大経現代語訳」

無量寿仏の名を聞いて信じ喜び、わずか一回でも仏を念じて、心からその功徳をもって  無量寿  仏の国に生まれたいと願う人々は、みな往生することができ、不退転の位に至るのである。ただ  し、五逆の罪を犯したり、仏の教えを誹るものだけ  は除かれる。

(浄土真宗聖典 浄土三部経、大経 現代語版 本願寺出版社、平成八年)

信頼と喜びが同時に起こることは、「真楽(しんぎょう)」という「信心と喜び」(喜びに満ちた信心)を意味する信心の言葉にも現れています:

信楽は、すなはちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦  の心なり、歓喜賀慶の心なるが‥‥『浄土真宗聖典』聖教データベース、顕浄土真実信  文類三)

現代語訳

「真楽」は、すなはち真実にして誠の、満たされた心(真実誠満)であり、上を極め、完  成し、はたらきのもっとも勝れた心(極成用重)であり、明らかなしるしをあらわし、あやまることがない心(審験宣忠)であり、望み願い、愛で悦ぶ  心(欲願愛悦)であり、歓喜    し慶賀する心(歓喜賀慶)‥‥ [(「日本の名著6、親鸞」石田瑞麿編・訳 252頁 中央公論社 昭和58年6月15日8版)]

 更に、別の箇所で、こう言われています:

しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜と名づく 『浄土真宗聖典』  聖教データベース、顕浄土真実  行文類二)

現代語訳

こういうわけで、真実の行と信をうるときは、心は大きな喜びにつつまれるから、これを「歓    喜地」と名づける。

[(「日本の名著6、親鸞」石田瑞麿編・訳 218頁 中央公論社 昭和58年6月15日8版)]

更に、

たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。顕浄土真実信文類 三

現代語訳

だから、思いがけなく清らかな信心をうるときには、この心はもはや虚偽であることはない。

これによって、この上もなくよこしまな罪深い人も、大きな喜びにつつまれ、多くの仏たちのによってと尊ばれ愛されることになるのである.(「日本の名著6、親鸞」石田瑞麿編・訳 237頁 中央公論社 昭和58年6月15日8版)

このように喜びを理解された証明として、親鸞聖人は、喜びが単に感傷だけではないことを次のように明らかに述べておられます

それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、    広大難思の慶心を彰すなり。(『浄土真宗聖典』聖教データベース 顕浄土真実信文類 三)

いったい、真実の信楽について考えてみると、この真楽には、一念ということがある。一念    というのは、真楽が開かれ起こってくる、その時の最初の一瞬をあらわしたもので、広大に    して思いはかることのむつかしい喜びの心をあらわしている。 (「日本の名著6、親鸞」石田瑞麿編・訳 268頁 中央公論社 昭和58年6月15日8版)

親鸞聖人は、信心の心は、仏法が真実であると強く確信した瞬間として喜ぶ心と同じであると説かれています。それは, 「喜び、悟り、および信心の”金剛心です。

親鸞聖人は、深遠な精神性の面で、信心と喜びが 同一であり、この考えが自己本位の気持から出た感傷ではないことを示されています。聖人は、喜びの精神的・宗教的な内容は、仏陀の慈悲を表すものとして私たちの最も深い精神性の願望の基礎そのものに根ざすものであると、次のように述べておられます。:

真実の一心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心はすなはちこれ真実信心なり。真実  信心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。  (『浄土真宗聖典』  聖教データベース、顕浄土真実信文類 三)

真実の一心は、すなわちあふれる喜びにつつまれた心である。あふれる喜びにつつまれた心は、  すなわち真実の信心である。真実の信心は、すなわち金剛石のように堅い心である。金剛石のように堅い心は、すなわち仏になりたいと願う心である。仏になりたいと願う心は、すなわち世の人を救う心である。(「日本の名著6、親鸞」石田瑞麿編・訳 270頁 中央公論社昭和58年6月15日8版)

喜びは、親鸞聖人の信心の考え方にとってこれほど大切だったので、理論から割り出したものでも、単に経文を口で表明したものから出たものではなかったのです。正確には、喜びが深く充ち満ちていましたので、経典の言葉が、ご自分の人生の大切な部分として体験されたことをはっきり表明するための乗り物になりました。これについて次の様に述べられれています。

慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。(『浄土真宗聖典』聖教データベース、顕浄土方便化身土文類 六)

現代語訳

なんと喜ばしいことであろう。いまわたしは心を広大な本願の大地にうちたて、思いを不思議な真実の海にまかせている。(「日本の名著6、親鸞」石田瑞麿編・訳 436頁 中央公論社 昭和58年6月15日8版石田)

この喜びは、後生に聖人の様々な著述をまとめ、伝えるライフワークのための励ましになりました。

親鸞聖人にとって、喜びと感謝の概念は、これでこの世の緊張が減るということではありません。阿弥陀仏の誓願を信ずると、私たちが如何に不完全で、それで最も深い精神的な願望をみたす進歩を妨害するあるかを強く気付くようになります。しかしながら、その喜びは、往々宗教指導者が押す完全な幸福という架空の理想とは全くその性質が違います。

親鸞聖人は、ご自分の欠点に強く気付かれていたことを認められ、ご自分の努力(つまり、人間のすること)と慈悲と知恵に満ちた不可思議な悟りの光を持つ仏の心と一つになろうとする目標との間に超えられない隔たりがあるのを感じておられました。

無限の光および生命持つ仏、つまり阿弥陀仏の誓約は、そのお慈悲が全ての人を、男女を問わず、ありのままに抱いて(摂取)下さるので、すべての生きとし生けるものが悟りに達する乗り物になるはずでが、それは、私たちが自分の意志で時々する努力ではなくて、私達のいくら小さくても良い行いからにじみ出る希望と誓約を通して達するのです。

親鸞聖人の信心から発する救いのお言葉は、聖人生活の四六時中、私達を抱き決して放棄されることのない阿弥陀仏の慈悲が限りない世界に置かれた、私たちの人間性の欠点を受け止めてくださいます。このような考え方が親鸞聖人の感謝と喜びの根本にあります。ご自分の欠点にも関わらず喜びがあるのです。人生での多くの範囲に亘る人間の苦痛、失望および自己欺瞞を感じられた、親鸞聖人は断言されています:

無明長夜(むみょうじょうや))の灯炬なり

智眼くらしとかなしむな

生死(しょうじ)大海の船筏(せんばつ)なり

罪障おもしとなげかざれ

正像末和讃(36)

現代語訳

煩悩の長き夜に弥陀の本願、大きな灯火なり

汝の知恵のまなこが暗しと嘆くなかれ

弥陀の本願、生死の大海に浮かぶ船なり

業苦の障り重しと嘆くなかれ

拙訳、参考 (「日本の名著6、親鸞」石田瑞麿編・訳 161            頁 中央公論社 昭和58年6月  15日8版)

喜びと感謝の意を切実に叫ばれ、聖人は阿弥陀仏のおはたらきが「ひとへに親鸞一人がためなりけり。歎異抄、後序」ご自分のためだとおっしゃっています。これは、利己的な言葉であったと解釈すべきではありません。むしろ、これは、聖人が個人的にご自分がどういう人であるかという意識を鋭く感じられていたことを示しており、聖人が阿弥陀仏にまつわる伝えの背後にある慈悲に摂取されていると強く気づかれていたことを証明しています。聖人が持たれた喜びと感謝の気持ちはご自身全体に浸透していますが、同時に現実的な正直さでご自分のことを述べておられます:

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に  入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。

『浄土真宗聖典』  聖教データベース、顕浄土真実信文類 三

現代語訳

それにつけても、しみじみと心から思い知らされる。なんと悲しいことであろうか。この愚禿釈の親鸞は果てもない愛欲の海に沈み、名声と利得の高山に踏み迷いながら、浄土に生まれる人のなかに数えられることを喜ぼうともせず、仏のさとりにちかづくことをうれしいと  も思わないことを、本当に、恥じなくてはならない。心をいためなくてはならない。

(「日本の名著6、親鸞」石田瑞麿編・訳 281頁 中央公論社 昭和58年6月15日8版)

歎異抄第九条で、唯円房伝えているところでは、彼が聖人に自分が[念仏を称えても]喜びで一杯に感ずる筈なのに少しも喜べないのは、どうしてでしょうと尋ねたときに、聖人は、ご自分もそう言う気持ちを持っていたと唯円房に同情され、次のように答えられています。

遠い遠い昔から、生まれかわり死にかわりして流転してきた、この苦しみに満ちた故郷が捨てか  ねて、まだ生まれたことのない安らかな浄土を恋しく思わない。それも、われらの心にさまざまな煩悩がむらがり起こって盛んな証拠。この世に名残りは尽きないものの、この世の寿命のが尽  きて、どうしようもなく死んでしまわねばならぬときになって、やっとあの世へ行くのが凡夫  の常であります。こういうふうに、いつまでもこの世に恋々とした思い、急いで浄土へ行こうと  する心がない人間を、仏はとりわけかわいそうに思われるわけです。

こういうことを考えるにつけても、いよいよ仏さまの大きな慈悲、大いなる願いが頼もレく思わ  れ、われらはそういう凡夫ゆえ、極楽往生することは絶対に間違いないと思うのであります。もしも踊り上がり、飛び上がりたくなるような強い喜びが心にあったり、急いで浄土へ行きたい  と思うような場合には、われらの心に煩悩がないのではないかと、かえって極楽往生のために都  合が悪いと思われるのであります。(梅原猛 歎異抄、九条:校注・現代語訳、講談社文庫昭和  47年4  月第一刷、講談社、p144)

親鸞聖人のお考えを現代風の表現で言い直すと、こんなことが言えるでしょう。私たちは、自己中心的な欲望、愚かさとび無知の中にいて、自身が意識するか無意識の心の中で悪をしでかすかもしれない未知の可能性に直面し、そして、現代の混乱し、腐敗した世の中にあっても、聖人は生きて行く中で自身の人生にとって大切で大きな意味がある喜びを見出された言えるでしょう。

私たちの命の奥底には基本的な生命を推進する力があり、これは、私たちの悪を超越し、私たちが善行をできないか、あるいは、したくない気持ちを超越し、私たちの自己欺瞞と横柄さを超越して働く力で、また、人生それ自身生き甲斐を感じさせる力がひそんでいます。

心理学者の中には、死の願望で動かされる者と、命で動かされる者がいると言う人がいます。命の力に驚きを感じ動かされるような人々は、その力に任せ、他の人達の生活を高めるよう専念します。そのような人達は、自分達の生活が深い生きる喜びで充ち満ちています。このように生命の価値を確認し、またこのように自分自身を絶対的に阿弥陀仏に命を預けることが、すなわち、親鸞聖人が考えておられた「真実の中心」です。浄土真宗で人の考え方を変えてしまう信仰の瞬間が信心で、そのようなことは、真宗の喜びと感謝の大切な部分です。

真実の探究では、意識の最も深いレベルを追求すべきです。宗教は、常に感情と感覚以上のものです。宗教は、真実を認識することに基づいていなければなりません。

親鸞聖人の思想は、明らかにその考えが大切であると強調しています。仏教は、修行が厳しく、現代では葬式やあの世を連想させるために、めったに喜びの宗教とは見られられてません。

今日、暗い世界のまっただ中にいても、色々な宗旨の宗教家が生命を祝おうと多く議論しています。仏教にも、さらに命を祝い、意味のある生活の源に私たちが目覚めたことを喜びと感謝の気持ちで、命を確認する理由があります。喜びは、私たちが真実、現実、誠実であると答え、認めた方(仏)に私たちをありのままに摂取していただくことが絶対に確かであるということです。

しかしながら、浄土真宗教団は、死者の供養に重点を置いているので、とてもこのような仏教の喜びの気持ちを表わす道を、お勤めの形でも、社会共同体の形でも、あまり用意していません。私の考えでは、この面は、さらに検討する価値があります。生きる喜び(生命の謳歌)と感謝の意を表すことは、たとえ私たちが命という贈り物を受けたという理由だけでも、道義にかなった生き方の礎になります。浄土真宗では、道義にかなった生き方は、信心を現実のものし、教訓主義や自己本位主義を越えて、深遠な生活を表現し精神面を高めることです。喜びと共に、感謝の意を表することで

浄土真宗の生活態度に芯が入ります。

阿弥陀仏が私たちを見捨てず、条件をつけずに、摂取して頂く喜びを実感すると、感謝する気持ちとなって現れ、これが真宗の道義に生きる礎になります。従来人の行動を規制する主な方法は、罰をほのめかしたり、社会で承認された行いをして誉められる魅力を与えることでしたが、親鸞聖人の教えは、これらを放棄されました。

従来あった行動規制の方法が除かれたらると、信徒はどんな生活態度を取ったら良いのでしょうか。普通の人は、一般に宗教を社会が承認する道徳律の基盤として見、救いを得るために良いことをして悪事を避けるようと図ります。そのような人にとって、宗教は、商行為に似ていて、恐れがその根底にあります。このような人々は、家族や学校および社会の定まりに従い、社会でみんなが受け入れている通りに自分も行動しています。

しかし、親鸞聖人の場合、そのような世の中の人気などをすべて無視されました。どんな行いもこれを強いたり勧めたりされなかったのです。極度に実行が困難な「易道」についても、聖人にとって宗教行動の唯一の基盤は感謝の意を表することだけなのです。聖人は次のように言っておられます。

ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといへり。

(『浄土真宗聖典』  聖教データベース 顕浄土真実行文類 二 )

現代語意訳

ただようくつねにみ名となえ

ふかきめぐみにこたえかし

(正信念仏偈の現代語訳、「しんじんのうた」}

あの有名な恩徳讃は、阿弥陀仏と先師の方々に感謝の意を表する和讃です:

如来大非の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

ほねをくだきても謝すべし

親鸞聖人の宗教生活で感謝の意を表すと言うテーマの中心がこのようであり、その後の師達もこのテーマを強調されましたので、これは、真宗信徒の生活の中心的特徴となり、受け継がれています。もちろん、謝意を表すことは、真宗だけの独特のものではではありません。他の教師および初期の仏教の教師はこの点を強調しました。また、同様に孔子の思想の中枢を占めていました。真宗の場合のこの表現が持つ重要な新しい面は、親鸞聖人にとって、謝意を表すことが実利主義、魔術、形式主義、および宗教から自分本位の利点を期待することを押しのけて、宗教生活の中心となるということです。

親鸞聖人が感謝の意を表すこと、およびその中心思想と役目に力を入れられたので、ただ単純に念仏を称えることを越えて、生活のほかの面に影響を与え、道徳指向と人間関係に全く新しい途を開く礎になるのです。聖人は、私達が恩を受けて来た神と仏を弟子達が中傷しないように、戒めておられます:

ありしゆゑに、曠劫多生のあひだ、諸仏・菩薩の御すすめによりて、いままうあひがたき弥陀  の御ちかひにあひまゐらせて候ふ御恩をしらずして、よろづの仏・菩薩をあだに申さんは、    ふかき御恩をしらず候ふべし。 (『浄土真宗聖典』聖教データベース親鸞聖人御消息集)

現代語訳

だからこそ、無限の時間にわたって生死を繰り返してきたあいだに、さまざまな仏・菩薩の  お勧めによって、こうしていまはじめて遇いがたい弥陀のお誓いにお遇いしたのに、このご恩に気づかないで、一切の仏・菩薩をいたずらにいっては、深いご恩を知らないことになる    でしょう。(「日本の名著6、親鸞」石田瑞麿編・訳 136頁 中央公論社 昭和58年6月15  日8版 親鸞聖人御消息集)

親鸞聖人にとって、すべての仏陀、菩薩および阿弥陀仏に対する感謝の意と私達の受けた恩を感ずる意識が、周りの世界について私達が抱く態度に直接影響します。もしも聖人がどのような正しいことを行い、悪いことを避けなさいと細かく言われていたとしたら、聖人の教えはご自身が避けられた形式主義にに終わっていたでしょう。

聖人は、何が善で悪であるかを明らかにされておりません。そうではなくて、親鸞聖人の倫理・道徳の志向は、深く感謝を感ずることから、人々とその場の状況について前向きな姿勢を取るように向けられています。この感謝の意の意識は、ご自分が悪を犯すかもしれないうことを自覚され、それと同時に、分け隔てなく善人も悪人も抱擁して下さる阿弥陀仏の限りないお慈悲を自覚されておられることに基づいています。これは、ちょうどキリストが「神は、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」と宣言した通りです。(マタイ伝第5章45節)

これは、聖人の倫理観が悪い行を容認したり許したりすると言うのではありません。私達人間の置かれた条件とすべての人類の業の重荷であり、逃げることが出来ない悪をしでかす傾向を知っていれば、阿弥陀仏の誓願に気付き、その誓願に抱かれるようになった心を満たす感謝の気持ちが起き、前向きなはっきりした行動に繋がります。浄土真宗では、私たちは、自分の業が組み入れた悪をしでかす素質に気付き、自分自身を畏敬の目で見ています。このように理解し、阿弥陀仏の慈悲から霊感を頂いて、私達は自分たちの思想、言葉、行動を前向きな方向に向けます。親鸞聖人は弟子達に、自分たちに反対する人たちに憎しみを抱くことなく、同情と思いやりをを持つようにと説いておられます。

念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをばあはれみをなし、不便におもうて、念仏をもねんごろに申して、さまたげなさんを、たすけさせたまふべしとこそ、ふるきひとは  申され候ひしか。  (『浄土真宗聖典』聖教データベース 親鸞聖人御消息)

現代語訳

念仏を称えるようとする人々はかのさまたげをするような人を憐れみ、気の毒に思って、念仏は懇ろに称えて、念仏をさまたげるような人をお助けになってください、とさえ古人はい  われました。(「日本の名著6、親鸞」石田瑞麿編・訳 136頁 中央公論社 昭和58  56月15日8版 親鸞聖人御消息集)

親鸞聖人はさらに述べられれています:

念仏を御こころにいれてつねに申して、念仏そしらんひとびと、この世・のちの世までのことを、いのりあはせたまふべく候ふ。…ただひがうたる世のひとびとをいのり、弥陀の御ちかひにいれとおぼしめしあはば、仏の御恩を報じまゐらせたまふになり候ふべし

(『浄土真宗聖典』  聖教データベース 親鸞聖人御消息)

現代語訳

念仏をお心に入れて常に称えて、念仏をそしるような人々の、この世や、後の世までのことを、一緒に祈りあわせてください。…ただねじけた世の人々のことを祈り、弥陀のお誓いに  摂(おさ)め取られるように、と思いあわせられますならば、それこそ仏のご恩を報じたて  まつることになりましょう。  (「日本の名著6、親鸞」石田瑞麿編・訳 142頁 中央公論社 昭和58年6月15日8版 親鸞聖人御消息集 )

鸞聖人がご往生された後、初期の真宗信仰社会では、聖人が懸念されていた問題の内、その後も残ったものが多くありました。従って、善円という名の指導者が信仰道場で秩序を維持するために、一連の規則を発布しました。しかし、これは親鸞聖人が仏教に取り組む姿勢と一致しませんでした。親鸞聖人は、煩悩に悩む人間が、自分の業により、良いこともすれば悪いこともするように操られており、そのような戒律とか規則を守ることはできないと考えられました。このことを理解されていた聖人は、規則では悪を防げないと見通しされたのです。

鸞聖人は道教の伝統や聖パウロ一と一致しておりましたが、それは、規定や、法律や規則は、抑制しようとする悪をかえって作ってしまうとした点です。特記すべきことは、歎異抄で唯円房は、規則を守らせようとするこの努力について、これは、親鸞聖人の教えに反する、自己で努力型の自浄作用の表れであると異議を唱えています。

現代風の言葉では、親鸞聖人は、人間心理のより深いレベルで取り組み、戒律とその強制という通常の宗教の倫理ではなく、心の転換の倫理を提唱されたと言ってよいでしょう。

したがって、聖人の倫理は外より内面志向的な倫理で、この姿勢を理解する手がかりは、唯円房が悪い行いをして、悔悟する問題を取り上げた歎異抄十六条にあります。悪行を悔い、あたかも私達の救いがそれで決まるかのように振る舞うのは、善人だけが救われることを意味します。この自力的考えを捨て、唯円房は次のように記しています。

信心さだまりなば、往生は弥陀にはからはれまひらせてすることなればわがはからひなるべからず。わろからんにつけてもいよ~願力をあをぎまひらせば自然のことはりにて柔和・忍辱のこゝろもいでくべし。すべてよろづのことにつけて、往生にはかしこきおもひを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひいだしまひらすべし。しかれば、念仏もまふされさふらう。これ自然なり。わがかはからはざるを、自然とまふすなり。これすなはち、他力にてまします。(歎異抄第十六条)

現代語訳

信心が定まったなら、極楽浄土へ行くことは、陀弥陀さまのおはからいですることですので自分のはからいがあってはなりません。自分が悪いことをするにつけても、一そうこういう悪い自分を救ってくださる阿弥陀さまの本願の力を仰ぎますならば、自然の道理でやざしく静かにものごとに耐え忍ぶ心も出てくるものであります。すべて、あらゆることにつけて、極楽浄土へ往生するためには、利口ぶる心を持たずに、ただ阿弥陀さまのご恩が深いことを  常にほれぽれと思い出す必要があります。そうすれば、自然に念仏が申されてくるのであります。これが自然ということであります。自分のはからいでないものを自然といいます。これはすなわち他力ということでもあります。(梅原猛 校注・現代語訳、歎異抄第十六条 講談社昭和五二年第11刷発行)

こで、念仏を経験するとその副産物として、念仏者の精神性に転換が起き、優しさと他人を許す態度が沸いてくると言ってもよいでしょう。自分で計画したり、計算したりしなくても、念仏は、知らない内に、自然と、独りでに私達の心に働きかけてきます。唯円房が書き残していることは、真宗で起こるこの転換の倫理、つまり、悪を自分自身で意識するのを受け入れる過程と、私たちの意識の目前に絶えず表れる、前向きな理想(阿弥陀仏の慈悲)を自分のものとすることです。この進め方は人間行動の改変法が示しているように、深遠な心理的・宗教的意義があります:

治療士(セラピストは)が患者を助けるのに最も効果があげられるのは、本人が直さなければならないことより、成し遂げたいことに集中し、悪い点より前向きな点を見てあげるときです。(Israel Goldiamond, Psychology Today, (11月号、7巻 6号99頁、1973)

精神衛生上の治療の場は、宗教上の進め方とは違いがありますが、似たところもあります。それは、両者共、自分の限られた能力を乗り越え、自分自身と人生にもっと高い満足のいくレベル、つまり心の内面的強さと前向きな人間関係の礎になれる高いレベル、に本人が到達しできるようにしてくれる点です。今日の若者と社会が必要とするのは、抑圧や「法と秩序」の社会ではなく、事を為し遂げていく過程で前向きの理想を持つ社会です。そのような過程ではその社会の銘々が命の尊さの確認と生き甲斐を深く感じられます。そのような過程こそ浄土真宗の姿です。

鸞聖人の喜びと感謝の考えが真に仏教の自我なしの生き方の基礎になっています。仏教は、無我を体験することを目標としてきましたが、この境地になれば、私達の妄想感覚から思い込みたいと思うのではなく、現実にありのままの事物の本性を考えるのです。この目標に到達するために、仏教は、自力による聖道を長い間追求してきましたが、この道は浄土教の教えとは別の伝統であり、出家僧院の道義と黙想を修行する事からなっています。親鸞聖人が比叡山上で長年修行したこの道は、聖人にとっては完全な失敗に終わりました。仏教の伝統では、事物も己自身も空であることを自分で悟るために、煩悩を浄化し、空と非二元論について黙想する試みが行われた、長い歴史があります。親鸞聖人は、これが真実の方法ではないことを悟っておられましたが、それは、結局、逆説的に、自我を消して無我に達しようとすると却って自我を強めてしまう結果になるからです。自力で向かうと、自我は自己の名声と権力を求めてより微妙な目立たない形をとるようになります。それは、人があることをしないようにすると、却って、それをもっとしてしまうという心理学の事実です。

親鸞聖人は、我欲が現実にあり、強いものであること認識されていましたが、それは、そのような我欲をも包み込んでしまう仏の慈悲の力を認識し、言い換えればご自分が人間の状態に固く縛られていることを認められた上でした。ご自分が求めた目標を達成するには、無力であることに気付いておられたからこそ、聖人は、限りない精神性の自由を手に入れられたのです。さらに、誓願の他力で起こる信心の転換のおかげで、我欲の自力の迷いが感謝の気持ちに置き換わり、それによって仏に対するご恩と人の命を支えてくれる人すべてへの恩を悟るという考えになるのです。このように、浄土真宗では、縁起論(えんぎろん)という相互依存に関する教義では、私達生存の基本的な形として抽象概念が感謝の意を体験することに転換されています。

親鸞聖人は、現実主義者でしたので、ご意見に繊細な点が伺われ、私たちが他人と自分の良いところを比べられる競争心を宗教生活から取り除こうとを試みられました。浄土真宗の信徒・教団共同体は、銘々がこの過程にそれぞれ参加してお互いに支え合う団体で、生きることすべてである念仏に結びついています。さらに他力に結びついており、それに乗って、私たちの貪欲で、無知で、強欲で、愚かな自己の限界を越えて阿弥陀仏に映し出されている現実に私達が抱かれるようになるのです。